報告
渡航期間: 2005年3月11日〜3月16日    派遣国: ビルマ
  出張目的
  南アジアと東南アジアの地域間比較研究準備のためのフィールド見学
  田辺明生 (人文科学研究所)

 

  活動記録
  3月11日(金)
  • ヤンゴンにて現地集合。
      3月12日(土)
  • 早朝、ヤンゴンからバガンに飛行機で移動。バガンの仏教遺跡を視察する。
      3月13日(日)
  • バガンからマンダレーまで車で移動。途中、村落のフィールド調査をし、またナッツ信仰の聖地であるポッパ山を見学した。
      3月14日(月)
  • 飛行機でヤンゴンに移動。ヤンゴンからイラワジ・デルタ地帯に車で移動。村落をフィールド調査する。
      3月15日(火)
  • ヤンゴン大学で、ヤンゴン・フィールド・ステーションにて共同研究を行っている日本人及びビルマ人研究者の調査報告を聞き、ディスカッサントとして議論をおこなった。夕方に現地解散。
      3月16日(水)
  • 帰国。

     

      結果と進捗状況
     
    【はじめに】
      今回のビルマ出張は、地域間比較のプロジェクトの一環であった。私は人類学・南アジア地域研究を専門とするものであるが、今回、専門とは異なる地域をみる機会を与えられて、いろいろと刺激となった。以下では、断片的ではあるが、出張中に見聞して考えたことを綴りたい。
      なおビルマは、インドではブラフマー・デーシュつまり「梵天の国」と呼ばれる。ビルマあるいはミャンマーの国号も、このブラフマー(梵天)の名がなまったものであると聞いている(ビルマ人に国名を発音してもらうと「ビャマー」あるいは「ビャンマー」と聞こえた)。インドの伝統的地理観からはごく親しい地域であり、英領インド帝国の一部を成していた(1886-1937年)こともあって、私もビルマに対してはインド研究者として近しい感じを持っていた。しかし実際に行ってみると、インド世界との深い文化的交流は如実であるものの、やはりビルマは東南アジアに属する社会であるということを実感させられた。
    【人間関係の技術と社会構造】
      3月11日の夜、ヤンゴン空港に到着。平松幸三さん(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)と合流した。空港の入国審査はその国の第一印象を大きく左右する。まず驚いたことは、入国審査官がほぼ全員若い女性であったことだ。女性の年をあてるのはうまくないが、ほとんどが20代半ばのように見えた。そしてそのなごやかに礼儀正しいことには驚愕させられた。人あたりのとてもやわらかな、はにかんだようにさえみえる笑みを常にたやさない。パスポートを受けとる際には、受け取り側の右手のひじあるいは上腕部に左手をそえる。そして周りの女性係員たちと何かこそこそとささやくように言葉を交わした後、入国スタンプを押して、そしてまたやわらかな笑みをうかべながら、左手をきちんと右手のひじに添えてパスポートを返してくれる。何か不思議な儀礼でも見ているようなこころもちであった。ビルマは現在、軍事政権が独裁体制をとる国であるという、新聞を斜め読みした程度の知識しかもちあわせていなかった私にとって、この入国審査での経験はほとんどショックに近かった。
      ちなみにインドの入国審査では、パスポートの受け渡しは台に(しばしば投げるように)置くのがあたりまえであるし(手渡しをしないのは浄・不浄の観念とも関係する)、審査官は慇懃無礼で無愛想な中年男性であることが普通である。ただし少し世間話をすると急に旧来の友でもあるかのように親しくなれる。これはインド人好きにはきわめて快いものであるが、あまりに馴れ馴れしいあるいは図々しいと思う人もあるかもしれない。距離をとった礼儀正しさというプロトコールは、エリート階層を除いて、インドではあまり使われない。これは、カーストなどの身分を前提にした社会関係規範が発達したインドにおいて、身分を不問にした公共的な人間関係の技術が一般的には未発達であることと関係しているのかもしれない。反対に、ビルマにおける友好の技術(それは単に形式的なものでなく実質的に快いものである)の発達は、この社会がカーストのような比較的固い社会構造を持つのではなく、むしろネットワークによる関係構築を中心としている(と推断しておく)ことと関連しているのではなかろうか。
    【お茶と公衆衛生】
      ホテルでは、安藤和雄さん(京都大学東南アジア研究所)と大西信弘さん(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)と合流。速水洋子さん(京都大学東南アジア研究所)と落合雪野さん(鹿児島大学総合研究博物館)とも偶然出会った。一緒にレストランで食事をして話をしたが、ミネラルウォーターを頼もうとしたら、安藤さんにお茶ならただでくれるといわれ、また驚いた。後にわかったことだが、これはホテルのレストランだけではなく、庶民的な食堂でもそうであった。インドでは安全な飲み水を確保するのにはお金がかかる(あるいは手間がかかる)のが常識であるが、お茶をただで出してくれるとはなんと豊かな国なのだろうと感心した。アラン・マクファーレンは、イギリスで、危険な水の代わりにいったん沸かしたお茶を飲むようになって、平均寿命が伸びたと議論していたように記憶している。食堂でお茶を飲み水代わりに出してくれるというのは、公衆衛生の面でずいぶんと望ましいことだ。
      これはお茶の種類やいれかたとも関連する。いわゆるblack tea (しかもleaf tea ではなく、細かな粒状で、少量でも濃くはいるCTC[cut, tear and curl ]をつかう)に牛乳と砂糖をたっぷり入れたインドの甘ったるいチャイではとても水代わりに飲めたものではない。ビルマの食堂で出されるのは、発酵の薄い中国茶風のもので、水分補給用に何杯でも飲めるさわやかな口当たりであった。
    【子供の頭をなでることとケアの文化】
      翌日の3月12日は早朝4時半に起床して、5時にホテルを出発した。飛行機でバガンに向かうためである。空港ではカウンターパートのMin Thein 氏(ビルマ語の発音はむつかしくてわからない)と合流した。Min Thein 氏は歴史学の教授(ヤンゴン大学)であり、一見泰然としているが、人と話すときは微笑をたやさず、心細やかに気を遣ってくれる紳士であった。飛行機に乗るときには、たまたま前に立った子供が階段を上るのに手を貸し、その子の頭をにこにこしながらなでておられた。ビルマでは、よその子供に皆がやさしいのには感心させられる。他の時には、別の人が、たまたま通りかかった子供の帽子が脱げかかっているのを直してあげて頭をなでているのも見た。
      ちなみにインドでは、見知らぬ子供の頭をなでるということはまず考えられない。「触る」ということについてまずタブーがあるし、特に頭については、明らかに目上の人(年齢やカーストや師弟関係などで)が祝福をするのでもない限り、まず触るということはありえない(祝福をするのでも頭の上に手をかざすのが普通である)。反対に目下のものは目上の人の足に触って挨拶をするのが礼儀である。
      ビルマでは、社会関係上の相互的な配慮・思いやり (care)の文化がすこぶる発達しているように見受けられる。軍部政権下において人権が制限されていると聞いていたので、ずいぶんとギスギスした状況になっているかと思いきや、日常の社会交流はきわめて快適であった(だからといって政治的権利の制限が看過されていいわけでは無論ないけれども)。ここでは、人間関係の基本は、ヒエラルヒーにもとづく規範や個人の権利ではなく、相互的な「ケア」によって支えられているように思われた。
      飛行機へのバスに乗る際にチケットの提示を求められたが、どこにしまったものかわからなくなってあわてた。一生懸命探していると、係員は微苦笑をうかべながらジェスチャーで「通っていい」と合図してくれた。ずいぶんと鷹揚なものだと思ったが、これも規範よりも相互関係を重んずる社会柄によるのかもしれない。
    【仏教遺跡とベンガル湾】
      幸い天気は晴れており、飛行機の窓からは、下の様子がよく見えた。安藤さんが地図をもってきて、地理や生業についてなどいろいろと説明してくれる。専門が違う人から教えてもらえるのはとても楽しいし勉強になる。湿潤デルタは思いのほか限られていて、乾燥地帯が広がっているのが意外な感じがした。何事も一見にしかず。
      バガンでは多くの仏教寺院を見学した。寺院群はむろんインドでもある。しかしバガンの仏教遺跡では二つのことに驚いた。ひとつはこれほどの大規模な寺院群が乾燥地帯にできたこと。インドの寺院群は、面積単位あたりの農業生産性が高い湿潤地帯にできるのが普通である。ジャワやカンボジアなどの例からもそれがインド外でも常識と思っていたのだが、バガンは特別のようである。どうしてこれほどの寺院群の維持が可能であったのかMin Thein 氏にも質問してみたが、諸説あるようで決定的な説明はまだないようである。もうひとつ驚いたのは、寺院の建築様式にずいぶんと異なるものが混在していたことである。インド東部地域のオリッサ様式の寺院(高塔を特徴とする)もあったのには驚いた(私の無知のせいによるのだが)。時代によっても異なるのであろうが、これほど様式に多様性があるのは、ビルマにおいて比較的自生的に発展した文化様式がある以外に、外からの多くの文化要素を受け入れたことに起因しているのではないかと思われる。特にベンガル湾交易を通じた文化交流は無視できないであろう。Min Thein 氏があとでセデスのThe Making of South East Asiaの関連箇所を指摘してくれたが、そこでは、オリッサとビルマの深い歴史的関係が記されていた。ペグはウッサ(オリッサのなまったもの)と呼ばれていたそうだし、ピュー王国にはシュリークシェートラ(オリッサ・プリーの別名)があったそうである。
     
    お茶とお茶請け(どちらも無料)   バガン仏教遺跡群
         
    バガンにて

     

     
    【「伝統」の観光化と生活の質】
      3月13日はまずバガン近くの村落(Minnanthu村)を見学した。安藤さんの農業技術調査のために立ち寄ったのだが、インタビューに丁寧に応じてくれた人たちは、「ミャンマー民俗伝統美」を売りにする店を経営していたことが興味深かった。パンフレットが用意されているほか(写真1参照)、綿花を近くで育て、綿をすき、綿糸をつくり、染め、布を織り上げる過程が実演されており、その隣で色鮮やかなシャツやスカーフが売られている。「ここで全部作っているのか」と感心して訊くと、「八割ほどは別の工場で作られたものだ」とあっけらかんと答えた。また去勢牛をつかって油(ゴマなど)を搾るろくろ式の器械(油搾木)もおいてあり、実演して見せてくれた。この油は経費が高くついて市場では売れないそうで、ほとんどが自家消費用だそうだ。観光客相手に売らないのかと訊くと、「欲しいか」とすぐにでもビンに入れてくれそうなようすだったので、あわてて断った。この器械は、油のためというよりも、どうやら観光客を集めるためのディスプレイらしい。
      この店で中心的な役割を果たしていると見られる Tin Swe Myint さん(30代後半と見られる女性)にどうしてこういう店を始めたのかときくと、「伝統を人に見せたいと思ったからだ」と答えた。こうした「伝統文化」を売る店は、移動中に他にも遭遇した。これらは典型的な「伝統の客体化」あるいは「伝統の商品化」の試みであるといえよう。しかし、ここでは、伝統を客体化、ディスプレイ化、商品化しながらも、その伝統実践を生活の一部として楽しんでいること、そして自らの伝統を人に見てもらうことに喜びを見出しているように見受けられることに感銘を受けた。
      一例を挙げよう。私たちと話している途中、外国人観光客(後で訊くとドイツからだった)が来ると、Tin Swe Myintさんは、自家製の葉巻に火をつけてこれ見よがしに吸って見せた。葉巻は商品の一部であり、これは実演販売にあたるだろう。案の定、ドイツ人は興味を持って、葉巻についてたずねていた(結局買わなかったが)。おもしろかったのは、観光客が帰った後、Tin Swe Myintさんは、吸いかけの葉巻を近くにくつろいで座っていたおばあちゃんに渡したことだ。そのあとおばあちゃんは実にうまそうに葉巻を吸っていた。ここで葉巻を吸うということは、商売の一部でありながら、生活の楽しみから切り離されていない。硬い言い方をすれば、ここにおける経済活動は、自己疎外を生んでいないのである。
      これは同じ伝統の商品化でも、たとえば高級ホテルのディナータイムに上演される「トライバル・ダンス」とはまったく異なる。「トライバル・ダンス」は、自己から疎外された労働として売られているものである(むろんダンス自体を楽しんでいるケースがまったくないとは言わないが)。しかし、Tin Swe Myintさんたちが、自分の村で、綿布を織り、葉巻を作り、ごま油を搾って、それを売ったり自家消費したりして過ごしているとき、「伝統」は生活から切り離された金儲けの道具だけでは決してない。伝統文化は、生活実践であり、また時には売れる商品でもある。資本主義と適当に折り合いをつけながら、地に着いた暮らしをも楽しもうとする、こうしたいい意味での鷹揚なスタンスには感心させられた。それは全体としての生活の質を高めようとするシビアなバランス感覚に裏付けられたものであるに違いない。

     

     
    写真1   綿花から糸をつむいでみせるTin Swe Myint さん

     

     
    【鎮魂と支配】
      バガンを離れ、ナッツ(精霊)信仰の聖地であるポッパ山に向かった。ポッパ山のふもとに、三十七のナッツが祀られてある。安藤さんによると、これらはビルマ人の王がバガンに王朝を設立したとき、征服され、殺された王たちであるらしい。その半分はインド人であり、もう半分はカレン人だったという。なるほど祀られているナッツのなかには、ラクシュミーやドゥルガーなど明らかにインド起源の女神たちもいる。
      被征服者の霊が、王国の守護神となるということは、インドでもよくみられることである。ただしインドの場合は、その土地と深いつながりがあるとされる部族民の犠牲者であることが普通であり、ここのようにインド人という明らかに外来者が祀られることはない。国家による犠牲者の鎮魂ということなら、梅原猛の大胆な仮説によると、法隆寺も聖徳太子の怨霊を鎮めるためであるという。「鎮魂と支配」というテーマは、地域間研究にとって重要であることを改めて思った。靖国神社をめぐる問題を考える上でも、このテーマを学術的に考察することは必要であろう。それは決して特殊日本的な問題ではないのである。
      せっかく来たのだからと、ポッパ山の頂上まで登った。すがすがしい風が吹き、丘と田園のすばらしい景観が広がる。恨みや権力のことなどを考えるのがいやになる。寺院には鐘がいくつもおいてあり、たたくと澄んだ響きがあたりにこだました。平松さんがサウンドスケープ調査のための録音をしていた。たしかに音なしで、この場所の経験を伝えることは不可能である。風の触感も残す方法はないものだろうかとふと思った。
      マンダレーまで車の移動中、日が暮れてしまうと、平松さんと安藤さんとさまざまなおしゃべりに興じた。日本ではごく近くにいながらなかなかじっくり話す機会もない。ビルマの印象、地域研究における理系と文系、沖縄と日本とインドと東南アジアの話、農業技術と開発の話、サウンド・アーカイブの意義、それぞれの来し方行く末などなど、さまざまな話をして、実に楽しくまた勉強になった。
    【マンダレーのGlass Palace】
      3月14日の朝、マンダレーの宮殿を外側から見た後、空港に向かった。Amitav Ghoshの Glass Palace に非常に感銘を受けていた私は、ぜひマンダレーの宮殿をじっくり見たかったのだが、時間がなくて残念だった。といっても、私のわがままで、空港に向かう途中に宮殿に寄っていただいたのだからありがたいことであった。Glass Palace は、マンダレー王族の没落とインドでの暮らし、東南アジアのインド人移民の生活、東亜・太平洋戦争時にイギリスと日本の間で苦悩するインド人兵の様子などなどを壮大な時間的・空間的スケールで描いた歴史小説で、植民地時代の南アジアと東南アジアの交流や両地域に日本が及ぼした影響を知るにも、またよい小説を純粋に楽しみたい向きにも、ぜひともお奨めしたい一冊である。マンダレーの宮殿は、外側から見る限りでは堀も塀もしっかりつくられており、むしろ合理的かつ機能的な設計がされている印象を受けた。
     
    ナッツ(精霊)たち   ポッパ山の頂上にて
         
    マンダレーの宮殿

     

     
    【水と公共性、事故処理】
      マンダレーからヤンゴンに飛んで、ヤンゴン・フィールド・ステーションの調査対象となっている二つの村落(Kyashok 村とAlanzi村)を見学した。私にとって、一番印象深かったのは、村の寺院の入り口に、誰でもが飲めるように水のタンクが用意されていたことである。しかもこの飲料水タンクは村人の一人によって設置されたらしい。こうした公共設備を整えようとする村人たちの気持ちがあることは、村落の発展にとってとても望ましいことである。水源はイラワジ川であり、その水を濾して飲むとのことであった。
      公共の場における水飲み場の設置は、浄・不浄の規制が厳しいインド村落においては難しいことである。井戸の使用をめぐっては、歴史上、不可触民解放運動の関係で多くの紛争が起きた。現在では、政府の開発政策によりチューブ・ウエルが集落ごとに設備される方向にある。こうした政策には、水源の数を増やすことによって、利便性を増すだけでなく、カースト間の争いを避けようという隠れた意図もあると思われる。インドにおいて、カーストによる分断があることは、公共設備の発展にとって望ましくないことは確かである。
      村落の見学の後、夜間にヤンゴンに戻る途中、車のヘッドライトがつかなくなり、文字通り立ち往生した。ヤンゴンの旅行代理店に電話して、代わりの車を手配してくれるように依頼したが、ヤンゴンから車が来るまでは待ちぼうけである。暗闇のなかでよもやま話をして、だんだんと口もきけないほどくたびれ果てたころ、やっと車とともに旅行代理店の担当者が到着する。安藤さんが一生懸命怒って抗議してくれたのに対して、担当者のほうは笑顔を絶やさず、すみませんと謝るばかり。彼の独特のキャラクターかもしれないが、へらへらとしているようにさえ見える。のれんに腕押しとはこのことか。インドならさしずめ、いかに自分たちはベストを尽くしており事故が起きたのは不可抗力 (伝統的な言葉遣いでいえばカルマによるもの) かを雄弁に述べ、夜にわざわざ来るのがどれほど大変だったかを匂わせた上で、代車手配の請求書をよこしたことだろう。こちらも旅行代理店の瑕疵を理路整然と指摘しながら、凄みをきかせて抗弁しなくてはならない。こういう事故時の交渉の際にも、社会関係や文化の違いというのは如実に現れるものだ。
      論理にせよ社会関係にせよ、シャープに切ってみせるインドと、丸くまとめようとするビルマ。あまりに乱暴なまとめだが、実感である。
    【ヤンゴンの最終日】
      翌日3月15日は、ヤンゴン大学にて研究報告を三件聞いた。大西さんの総合的地域研究の提言、Dr. Daw Pyone Aye の飲料水に関する報告、Dr. Win Myat Aungによる村落の近代化についての報告、どれも聞きがいのある優れた研究発表であった。
      飛行機出発までの時間を利用して、市内のシュエダゴンパゴダを見学した。この寺院は建築としても圧倒的にすばらしいが、参拝者たちの厚い信仰心をうかがわせる、境内の柔らかく落ちついた聖なる雰囲気にはさらなる感銘を受けた。
      ひとつびっくりしたのは、つぼに入った聖水を、人々が同じひしゃくを用いて、口につけて飲んでいたことであった。肝炎の人がひとりあれば、あっという間にウィルスは蔓延するだろうと思った。繰り返しになるが、インドでは同じつぼから不特定多数の人が水を飲むことはありえない。公共財へのオープン・アクセスと公衆衛生の問題も、地域間研究のおもしろいトピックになるだろう。
    【おわりに】
      とりとめもなく書いてきたので、特に結論めいたことはない。ただ今回のビルマ訪問が私の研究にとって非常に刺激になったことは間違いない。地域間比較は、厳密にやろうとすると方法論的に難しいであろうが、違う地域を専門にするものたちが集まって話し合うだけでも、お互いに大いに役立つであろう。最後になったが、多忙の中、私たちのアテンドに時間を割いてくださった安藤さんと、さまざまなアレンジをしてくださった大西さんに心からお礼を述べたい。
     
    村の寺院の前におかれた水飲み場   シュエダゴンパゴダ

     

      今後の課題
     
      地域間研究の方法論についてより議論を深める必要があると同時に、専門地域が異なる研究者の共同フィールドワークをする機会をより体系的に設けていく必要があるだろう。

     

     
    21世紀COEプログラム「世界を先導する総合的地域研究拠点の形成」 HOME