報告
ラオス・フィールド・ステーション(LFS)活動報告(平成17年度No.2)
−「日本人研究者によるラオス研究成果発表会」の開催(2)−
増原善之 (21世紀COE研究員)

  平成16年度活動報告No.4でも述べたように、LFSは日本人研究者とラオス国立大学の教員・学生との間の学術交流を促進するため、カウンターパートであるラオス国立大学林学部および同大学ラオス・日本人材開発センター(通称「ラオス・日本センター」)との共催により、日本人研究者がラオス国立大学の教員や学生らを対象に自らの研究成果をラオス語で発表するという催しを行っている。今回は第3回発表会ならびに第4回発表会について報告したい(なお、第3回発表会は国際機関International Development Research Centre (IDRC)のビエンチャン・プロジェクト・オフィスも加わり四者共催となった)。

(1)第3回発表会(2005年5月18日開催)の模様

  第3回発表会では、筆者(増原)が「ラーンサーン王国の繁栄は何によって生み出されたか?−16〜17世紀のラオス経済史−」と題して発表を行った。ラオス史研究において16世紀初頭から17世紀末にいたる時期は、ラーンサーン王国がその版図を拡大し、経済的繁栄を享受した「黄金時代」であるとみなされている。これまで当国の歴史教育の現場では、このような繁栄はサイニャセーターティラート王(在位1548〜71)やスリニャウォンサー王(在位1637〜94)を始めとする類い稀な政治手腕を有する指導者たちのリーダーシップによるものであるという「国王中心史観」が広く受け入れられてきた。これに対して、繁栄の要因を指導者の個人的資質に帰するのではなく、内外の経済的状況の検討を通して、右要因の具体的な説明を試みるというのが今回の発表の主要テーマである。

ルアンパバーン・シェントーン寺院

ビエンチャン・タートルアン寺院
(ともに16世紀半ばの建造と伝えられる)


  まず、スライドを用いながら16〜17世紀のラーンサーン王国史を概観した後、同王国に繁栄をもたらした要因を考察するためには、外的要因と内的要因の双方を考慮しなければならないと指摘しつつ、当時の国際経済状況、同王国の主要産物(天然資源)および商品流通システムを中心とする経済活動についての説明を行った。ラーンサーン王国に繁栄をもたらした要因をまとめると、外的要因としては、東南アジアを中心として国際交易が未曾有の発展を遂げた「交易の時代」において、外国市場から同王国の産物に対する需要が増大したこと、内的要因としては、(1)同王国が、金、安息香、ラック、犀角、象牙、鹿皮、麝香など、当時の外国市場が必要としていた産物に恵まれていたこと、(2)山地部に居住し、貴重な森林物産の主な採取者だったラオ高地民、川沿いの村々に居住し、地方交易を担ったラオ低地民、さらに王都ビエンチャンを本拠地として外国交易に従事していたラオ人商人および外国人商人が一つの経済システムの中で結び付いていた−商品流通システムが広い範囲で確立していた−ことなどをあげることが出来るだろう。

メコン河岸での砂金取り(ルアンパバーン県)
安息香の採取(ルアンパバーン県)
  発表を終えるにあたり、ラーンサーン王国の繁栄は少数の指導者の優れた個人的資質によってのみ作り出されたわけではなく、先に述べたような様々な要因から生み出されたことを改めて指摘し、歴史に名を残さなかった民衆の経済活動こそ社会に変化をもたらす原動力になるのではないかとの問題提起を行った。人々はどんな仕事に従事していようとも、どんな民族集団に属していようとも、どんな場所に居住していようとも、自らの生活をより良いものしたいという欲求を有しており、こうした物質的欲望こそ当時のラーンサーン王国に商品流通システムを成立させる要因の一つになったとも言えるのではないか。右システムの確立が同王国の経済発展に大きな役割を果たしていたとすれば、農民、職人、商人などを始めとする一般の人々も「歴史的役割」を有していたはずであると述べ、発表を締めくくった。

(2)第4回発表会(2005年12月14日開催)の模様

  第4回発表会では、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)に在籍中の吉田香世子さんに「在地の知識−農村における助け合い−」というテーマで発表していただいた。吉田さんは2004年9月から2005年11月までの1年余りの間、ラオス北部に位置するルアンパバーン県ナムバーク郡ナーヤーンタイ村で定着調査を行ってこられた。吉田さんによれば、ナーヤーンタイ村の住民の多くはルー族(ラオスの主要民族グループである低地ラオ族の一派)によって構成されており、600年に及ぶ歴史の中で人々は周辺他民族との相互関係を変転させつつ、独自の生活世界を築いてきたという。  まず、吉田さんは村人の生業である稲作を取り上げ、村人同士の助け合いがどれほど大切であるかということを田植えや稲刈りなどを例に説明してくださった。さらに、人々の誕生(出産)、出家、結婚および死亡にまつわる諸儀礼を行う際にも村人同士の協力は欠かせないという。なお、これらの儀礼の多くはラオスの多数民族であるラオ族のそれに類似しているが、ナーヤーンタイ村では小学校を卒業した男子のほぼ全員が少年僧として出家し、寺院において数年間を過ごすということであり、ラオ族以上に仏教の伝統的なしきたりを守っているように思われる。

子どもの誕生を祝う儀式 少年僧の生活

  2002年、ナーヤーンタイ村は伝統文化をよく保存しているとしてラオス情報文化省より「文化村」に指定された。村人たちが先祖から受け継いだ文化や慣習を大切にしていることは、ブン・ピーマイ(正月)やブン・パヴェート(大生経祭(だいじょうきょうさい))を始めとする年中行事の様子を見ればよく分かる。ここでも村人たちは一致協力して準備にあたり、共に祭りを楽しみ、その喜びを分かち合うのである。

ナーヤーンタイ村の正月
正月恒例の水掛け(左)、砂の仏塔作り(右)
ブン・パヴェート(大生経祭(だいじょうきょうさい))
新出家者や故人に供えるパーサート(左) 説法を拝聴する在家信者(右)

  しかし、社会全体が変化していく中で、ナーヤーンタイ村における「助け合い」にも変化の兆しが見られるようだ。これまでは田植えや稲刈りなどの時期に手伝いに来てもらった場合、そのお礼として食事をご馳走するとともに、手伝いに来てくれた家族が人手を必要とするときに、こちらから手伝いに行くことが慣例となっていたが、最近では現金を支払って済ませる場合が多いのだという。少子化と若年層の都市部への流出により各家庭の働き手が減少したため、手伝いに来てもらってもそのお返しに手伝いに行くだけの余力がないこと、さらに多人数の食事を振舞うのは負担が大きいことが主な理由だという。この現状を吉田さんは従来の方法では立ち行かなくなった家族を村全体が支えていると考える。そして、社会状況の変化を受けて「助け合い」の形態に変化が生じていくことは避けられないとしても、新たな形態をとりながら、「助け合い」の精神自体は廃れることなく続いていくだろうと結論付けておられた。

  なお、上記2回の発表会には、ラオス国立大学の文学部、社会科学部、経済・経営学部および林学部などからそれぞれ80名を越す教員・学生の皆さんが参加してくれた。発表に続いて質疑応答が行われたが、教員のみならず学生の間からも多数の質問が寄せられ、参加者の関心の高さが印象的であった。LFSでは今後も年3回のペースで同様の発表会を開催していく予定である。

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