フィールドからのたより

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「おかずはな〜に?」
−フィリピン・サマール島の海辺から−
細田尚美(東南アジア地域研究専攻)

写真1 タソイらがつかまえたサワラ
写真2 早朝、波止場に老若男女が集まる

  バト村の早朝は賑やかだ。

  2月初旬のある朝、この日もアロ(aro、請願、おねだり)すると言っていたティミーら村の若者たちと一緒に、私はまだ薄暗い午前6時前から、村の波止場で海から戻る漁師たちを待っていた。6時を回ったころから、靄につつまれ鏡のように静かなサマール海に小舟の姿が見えはじめた。いつのまにか、波止場や海辺には老若男女が集まり、世間話をしながらも、戻ってくる漁師たちを注意深く観察している。豊漁だったとおぼしき舟を見定めては駆け寄り、おこぼれにあずかろうというのだ。

  この朝一番の大漁だったのは、村で最大の舟をもつタソイだった。舟から降りてくる5人の男たちがそれぞれ1メートルはゆうに超えるサワラを抱え、波止場に集まった村人の間をくぐり抜けていくさまは、まさに凱旋といえる(写真1、2)。慣れている様子のティミーは、タソイの舟が波止場につけられるやいなや、ほかの青年たちとともに舟に乗り込み、サワラ以外の「小物」の入ったバケツを運び出すのを手伝いはじめた。作業が一段落したところで、ティミーはタソイがバケツの中から取り出した3匹の魚を黙って受け取った。その約30分後、魚の仲買人が村に立ち寄り、タソイはサワラ5匹を1キロ80ペソ(1ペソは0.5円)で売り、仲買人は近くの町の魚市場へと向かった。

一方、村ではスラ(sura)、おかずが手に入ったと喜んで家に帰る人たちを尻目に、ローデスは渋い顔だった。彼女は村の若い男たちを使って材木業を営んでいる。ティミーのようにスラを手に入れてしまった人は、その日の人足集めに応じないことが多く、ココヤシ材の切出し作業が進まないからだ。

「スラ」との出会い

  スラという言葉に興味を引かれたのは、フィリピン中部にあるサマール島西岸のバト村で調査を始めて2日目だった。案内役を買って出てくれた女の子と一緒に、村内を歩いていた時のこと、道端で出会った人たちから、自己紹介もすまないうちに「あそこんち(ホームステイ先の村長宅)のスラはな〜に?」と口々に聞かれ、面食らった。それから数日経って、村長の長男が「何を書いているのか」とフィールドノートを書いている私に尋ねた。「その日何をしたのかとか、何を食べたのか…」と答えると、「食べた物を書いているのか」と一瞬、怪訝な顔つきになった。しばらく経って、地元のワライ語を少し使いはじめると、ある村の人が私のワライ語を愛想良くほめたあとに続けた。「日本に帰ったら言ってやりな、ナノ・アン・スラ?、おかずはな〜に?って。(知らない言葉を聞いて)みんな驚くよ」いきなり出てきたワライ語の典型的基本文が、この村では「こんにちは」などの挨拶文でも、「これはペンです」のような教科書的な文でもなく、「おかずは何?」だった。おかずを聞くことがここでは挨拶みたいなものかもしれない、という考えが頭をよぎった。

  食が人々の関心事の中で非常に重要な地位を占めることは、バト村にかぎらず、世界各地で認められる。フィリピン国内の他の地域でも、食に関するフレーズが挨拶代わりのように使われている。初対面の人からの第一声が「食べましたか?」という場面に出くわし、とまどった経験は、たとえば、マニラの超高層ビルの中でもあった。しかし、マニラでもサマール島の都市部でも、スラあるいはそれに相当する地域語が日常会話のキーワードの1つだとは感じなかった。バト村に来て初めて、スラという言葉を耳にしたときに敏感になった。

写真3 サリサリストアの前は日々の社交の場
私の研究テーマはサマール島民のマニラ移住過程であり、食べ物に特別な注意を払っていたわけではない。だが、「スラ」にはなにかひっかかるものを感じ、とりあえずその言葉に関係した状況をノートにメモしはじめた。のべ1年以上滞在することになったバト村で、スラは家の軒先やサリサリストア(小規模雑貨店)の前に置かれた縁台で交わされるおしゃべりで頻繁に登場した(写真3)。また、特に夕刻ごろになるとスラを探して村内を動き回る人たちと出くわした。そうしたスラが登場する場面を記した雑多なメモをもとに、このフィールド便りでは、スラの順位づけやスラをめぐるやりとりの様子を紹介することで、断片的かつ暫定的ながらも、村の人間関係を中心とした日常の一面を描いてみたい。

写真4 スラの例:(前列左から)焼ナス、トゥリンガン(tulingan、サバの一種)の炭火焼、鶏肉のスープ、(後列左から)ご飯、鶏肉のスープ、サツマイモとサトイモ、塩を加えた酢(つけソース)
経済状況の「速報板」

  スラは主食の米と一緒に食べる副食を指すが、実際の会話では、おそらく広義として、米以外の食べ物も含まれる(写真4)。

  スラが話題になるとき、もっとも同情を引くのは粥とバナナだ。食べ物がこの2種しかないとなると、債務不履行と宣言するようなものである。ある日、「うちも大変なんだから、今日こそはコラから借金を返してもらう」と意気込んでコラの家に向かったルスは、じきに手ぶらで帰ってきた。彼女曰く、「家の前にジュリエット(コラの4歳になる娘)がいてね、何を食べたんだって聞いたら、お粥だって。腹がすいているって庭先をうろついているんだもの」。バナナにはいろいろな種類があるが、ここで話題にしているのはアルダバとよばれる料理用バナナである。これをゆでたものは、朝食やおやつ、あるいは副食として食べるが、主食となったら貧しさの代名詞だ。

  スラ番付の下から2番目の分類に入るのは、ブドなどと称される塩魚である。1匹2ペソで3人分ぐらいのおかずとなるほど塩辛い。塩魚とほぼ同列に扱われる食べ物がトウモロコシ米だ。白色トウモロコシをひき割りにして米と同じようにたく。村人の中にはトウモロコシ米は腹持ちがよいので好きだという人もいる。とはいえ、トウモロコシ米が白米よりずっと低い地位におとしめられているのは、その値段のためだろう。村のサリサリストアでは、白米の半分以下の値段で売られている。

  根菜類(サツマイモ、キャッサバ、サトイモなど)、野菜(十六ササゲ、隼人ウリ、ナスなど)、野菜のように煮炊きする果物(パパイヤ、ジャックフルーツなど)も位置づけが低い。これらの作物は村内での売買や自家消費用に畑や庭先で栽培されている。前述のコラは、マニラ在住の夫からの送金が遅れて頭を悩ませていた時期に、家の前を通りかかったルス(ルスはコラがしばしば金や米を借りる友人)に聞いた。「さっき食べたスラはな〜に?」。ルスは「野菜だけ」と困った表情をみせた。もっとも、本当に野菜だけだったのかどうかは不明で、ブタ肉入りスープだったといううわさがあとで流れていた。

  塩魚や野菜よりも少しましで、いわゆる「ふつう」とみなされている部類のスラは、魚介類、インスタントラーメン、缶詰類などである。冒頭に書いたように、釣れた魚のうち大きなものは「マニラ」(都会の意)や「アブロード」(外国)行きとして村外へ運ばれ、村自体ではカタクチイワシやイトヨリといった小ぶりの魚を酢、ニンニク、生姜をベースとしたスープにしたり、炭火で焼いたりして食べる。

  魚介類は、村人の間ではおすそ分けのようにタダでもらうことも、近くの漁村から自転車にバケツを下げてやって来る行商人から「買う」こともある。ただし、買うといっても1軒分で10〜15ペソ程度と村の物価からしてそんなに高くはなく、なにがしかの現金収入のある家庭では買って済ますことも珍しくない。また、バト村では6〜8月あたりを中心に季節風のために漁に出られない時期があり、そんなときにはサリサリストアでインスタントラーメン(汁物として飯の上にかける)、イワシなどの缶詰、あるいは卵を買っておかずにする。これらも1軒分でだいたい10〜15ペソである。

  最後に、上等のスラとみなされているものとしては、肉類(村内で飼われているブタやトリを絞めたもののほか、町で買ったポークバーベキューやフライドチキンも)、大ぶりの魚、スパゲティ、パンシット(中華風の麺類)などがある。肉類や麺類は、フィエスタやクリスマスなどの特別の日の定番メニューである。ただし、特別の日に出されるときにはハンダ(handa、ご馳走)とよばれ、スラとはよばれない。ハンダは交友関係のある人たちと会食するが、スラの場合は家族だけで食べる。これらのスラがたびたび出ているとの評判がある家は「金持ち」だとして羨望の目でみられる。また、「金持ち」でない家でこれらのスラが出たとなると、「何があったんだ?」「どこから金が入った?」と格好のうわさ話の種となる。

  以上の分類や順位づけは、各スラが話題になったときの村の人たちの反応に基づいて私が行ったものである。借金を取立てに行ったはずのルスが、粥を食べているという家からは取り上げられないと帰ってきたように、取立てのような相手の経済状況を見きわめる必要があるとき、スラが客観的な判断基準の1つとして用いられている。住居や服装といった別の尺度もあるが、スラほどそのときどきの経済状況を敏感には反映しない。さらに、頼みごとが成立するか不確かなときなど、まともに断られて関係が悪くならないように、あらかじめ互いの状況――経済的な現実だけでなく、相手に対する気分的なものも含めて――を探る社交術の小道具になっているとも思える。

親疎さを映し出す鏡

  バト村の中には月給取りや、冒頭に書いたローデスのように商人となり、少なくとも当座はスラの心配がないようにみえる家が若干ある。しかし、大多数は小規模な農業か漁業あるいは村内外での日雇い労働で生計を立てており、そうした家々では、スラがあるかないかは日々の切実な関心事となっている。では、天候が悪かったり、仕事がなかったりしてスラが手に入らない日にはどうするか。

  1つは、雇用や取引関係のある人からスラをつけで買うという方法である。現在のバト村で主な雇用先は材木業であるが、ローデスなどの雇用主はサリサリストアも経営しており、従業員はその店でスラをつけで買う。同様のことは、コプラの仲買人と生産者の間でも行われている。コプラというのは、ココナツの胚乳を乾燥させたものでマーガリンや石鹸の材料になり、サマール島の主要産品である。

  雇用や取引関係がなくとも村内のほとんどのサリサリストアではつけがきく。この場合は、労働やコプラといった担保がない分、取立ての問題が深刻だ。余裕のない人たちから厳しく取り立てれば悪い評判が立ち、ほかの顧客どころか日常生活の仲間さえ失いかねない。よって、相手の経済状況を時おり見計らって取立てのチャンスをうかがったり、相手の面子を傷つけないようにと、取立てには大人ではなく子供を使いにやったりなどの工夫をしている。加えて、本当に窮乏している人に対してはつけではなく無償で恵んだりすることもある。

  つけ買いと同じくらい頻繁にみられるのが、非常に親しい間柄の人たちの間でスラを融通し合うことだ。ある日の夕暮れ時、2人の子供の手をひいたニニと道端で出会った。彼女は「ねえ、さっき母さんの家にいたでしょ。スラはなんだった?」と尋ね、気づかなかったという返事を聞いてちょっとためらった後、その母親の家の方へ向かい、酢で煮込んだ小魚と蒸かしたイモを入れた皿を手にして戻ってきた。このようにスラのやりとりは、子供が結婚して独立した後も親子間でみられるし、兄弟姉妹の間でも行われている。

  もちろん、諸々の理由で、近親者よりも、そのときどきに仲良くしている非近親者に頼る場合も多い。たとえばニニの場合、スラに困ったときにアロする相手は両親のほか、2人のいとこ、それからルスなど彼女のおしゃべり仲間である。雑役夫の弟2人には事実上頼れないし、ほかのいとこたちは「子供がたくさんいて大変」「向こうから持ってきてくれれば受け取るけれど、こちらからは恥ずかしくてアロできない」などと言っている。

  一方、幸運(suwerte)を得たと考えられる人からは、非常に親しい間柄でなくとも、タイミングよくその場でアロすれば、たいてい何かもらえる。冒頭の、明け方の海辺の様子はその一例だ。ほかに、主に男性の間の娯楽として昔から人気のある闘鶏の例を挙げることができる。勝利した鶏の所有者は掛金と死んでしまった相手方の鶏をもらうが、周りの人はその鶏の肉の一部や勝利を祝う宴会に出された食べ物の一部をもらう。移住した村人の帰省に際して催される宴会もこの部類に入るだろう。村からマニラなど他の土地へ行くことは「幸運を求める」(makipagsuwertehay)行為とみなされている。帰省となると、その結果を問われるわけで、たくさんの土産を持ち帰るだけでなく、数日にわたり酒や食事を振舞ったりもする。そんな宴会で出された食べ物をもらうことは、特に嫌いな相手でない限り、問題ないどころか主催者にも喜ばれる。

  スラをアロする際のもっともわかりやすい形式は「おたくの(食べ物の名前)をアロする」などと相手に面と向かって言うことである。それ以外に、冒頭で紹介したティミーとタソイの間で交わされた「無言の」アロや、別の人を媒介者として立てて顔を合わさずに行うアロもあり、これらの方がより一般的だろう。アロではなく、日本の「おすそわけ」のような慣習も強い。スラが量的にたくさんあったり、珍しいスラを持っていたりする人は、身内や仲間にも分けることを期待されている。

  バト村の複雑な人間関係をひも解く切り口としては、雇用関係、村組織の構成員、祭事への参加者等々の観察が考えられる。だが、案外、日ごろ何気なく観ているスラのやりとり関係もその1つになるのかもしれない。

人柄を試される試金石

  スラは「持たざるもの」にとってだけでなく、「持つもの」にとっても悩みのタネになりうる。

  相互扶助の精神と実践はフィリピンに限ったことではないが、フィリピンでは特にそれを尊び、人の良し悪しを判断する際の重要な柱に据えている。その一方で、パイがそれほど大きくないのならば、周りを助けるよりもまず自分の暮らしを少しでも良くしたいという欲求も人々にはある。口コミや電波を通じて購買意欲を誘ったり、さまざまな生き方を紹介するような情報が毎日流れる現在、これら2つの価値観のベクトルの間での揺らぎはいっそう増しているといっても過言ではないだろう。

  しかしながら、バト村では現在でもスラがない人を目の前にして、持っているのに与えなかったとなれば大問題だ。スラをアロされることは仲間(ときには事実上の配下)が増えることであり、悪い気はしない。期日の保証はないが、機会が来れば何らかの「お返し」も期待できる。とはいえ、スラは毎日のことであり、いつもアロされるとなると嫌気がさすときがあっても不思議ではない。なかには単なる便乗としか思えないようなアロもある。だからといって、邪険に対応してしまったら、厳しく取り立てるサリサリストアのオーナーと同様、「けち」「人を見下している」「石の心(冷たい)」等々の悪い評判が流れる事態を招きかねない。そうなれば仲間は減り、村での商売は上がったりだ。バト村では経済力を持つ人は村会議員になる傾向があるが、「けち」などと呼ばれるようになってしまったら票は集まらないことは目に見えている。

村の世界と「マニラ」の世界

  冒頭で紹介したタソイには、サリサリストアを切り盛りしているダンダンという娘がいる。20代だが、タソイと似て勤勉なうえに商才もある。これまでに彼女はチャンスとみては新しい種類の野菜の栽培をしたり、村の中で惣菜屋を開いたりした。だが、どれも長くは続かなかった。「たくさんアロに来るんだもの。拒否するとつぶされそうになる。マニラならそんなの無視できるらしいけれど、ここでは難しい」悪い評判が立ち、タソイ一家の他の商いにまで影響が出たら大変だという家族の意向もあり、止めたらしい。

  ダンダンのため息を聞いた日の夜、彼女の将来について思いをめぐらした。彼女にはマニラで頼ることのできる家族がいる。マニラなどの都市でのチャンスに希望を見出そうとすれば村を離れる日が来るかもしれない。社交性と合理的な考え方を持つ彼女は自分でビジネスをしても、別の人に雇われてでも上手くやっていく可能性は高い。そうなった時、彼女は村とどう向き合うのだろうか。貧しくともスラを互いに融通しあう郷里を恋しがり戻ってくるか。それとも「助け合い」に足を引っ張られる慣習はごめんだと遠のくか。あるいは、その中間として――多くのマニラ在住の成功者たちがそうしているように――生活の拠点はマニラに置きながらも、時おりたくさんの土産をたずさえながら村に帰省するのか。

  スラのやりとりの様子を知れば知るほど、村の人たちが教えてくれた「ナノ・アン・スラ? おかずはな〜に?」という基本文には深い意味があるような気がして、私はいまだに彼らに向かってこの質問を言えないままでいる。

『アジア・アフリカ地域研究』第4-2号掲載: 2005年3月発行

 
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