フィールドからのたより

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タンザニアの「ブッダ」あるいは「日本の神様」
川西陽一(アフリカ地域研究専攻)

写真1 プワニ州ニャマト村近くにて、アフリカ黒檀の幼木。高さは3〜4mほど。
写真2 マコンデ村の昼下がり。店の並びの様子、曇天。
写真3 マコンデ村の夕暮れ。仕上げ作業にいそしむ職人たち。
  東アフリカのお土産品の1つに、木彫がある。その多くは黒色で、なかにはマホガニーに黒色塗料を塗ってそれらしくみせているものもあるが、本来は、スワヒリ語でmpingo(通称;African blackwood、African ebony、Black ebony、学名;Dalbergia melanoxylon)とよばれるアフリカ黒檀が使われている(写真1)。この木は、『アフリカの広い地域に分布しているが、多くみられるのはタンザニアとモザンビークに限られる』という。1) そして、実際に流通しているアフリカ黒檀製の彫刻は、ほとんどすべてがタンザニア産のものである。この木はまた、床や楽器の材としても使用され、大変硬くてその商品価値は非常に高い。

  タンザニア、ダルエスサラーム市内のムウェンゲ地区には、東アフリカにおけるアフリカ黒檀製彫刻の一大集積地である「Makonde Handcraft Village(以下、マコンデ村)」がある(写真2)。当地には100軒近くのお土産品店があり、約400人もの人々が店の軒先で実際の手作業に従事している光景をみることができる。また、陳列商品のなかには、ケニアやマラウィ、ジンバブウェなどで作られた非アフリカ黒檀製の木彫や、石彫刻、布類なども少なくない。

  この区画の名称に冠された「Makonde(以下、マコンデ)」とは一民族集団の名前であり、観光客にはアフリカ黒檀製の木彫の彫り手として知られている。彼らは、遅くとも1800年代後半にはモザンビーク北部からタンザニア南部にかけて、国境のルヴマ川をはさんだ丘陵地域に居住していた。その多くはモザンビーク側にいたが、度重なる飢饉や隣接する民族集団との衝突が契機となり、また、後にはモザンビーク内戦の難を逃れるために、あるいは職を求めてタンザニア側へ移住する者が増えていった。

  マコンデ村で手作業に従事している者のうち、マコンデの人々は半数以上を占める。彼らは「自分がマコンデであり、たとえタンザニアで生まれていても、何らかの形でモザンビークに縁故がある」ことを強調するとともに、「タンザニア出身のマコンデは彫刻を行わない」と、自らの出自をほのめかす。とはいえ、タンザニアには、120〜130もの民族集団が存在し、特に都市部では彼らをふくめ多くの民族集団の人々が、幾分の偏りはあるにせよ、混在した状況のなかで平穏に暮らしている。そのような現状から、少なくとも現在、その民族集団を理由として多大な不利益を被ることはないと考えられる。こうしたなかで、一民族集団への帰属を強固に表明するにとどまらず、他国にゆかりを求める彼らの態度には一種独特な印象を受ける。

  また、作業従事者約400人のうち、約50人は装飾家具などを製作する職人で、いわゆるアフリカ黒檀製の彫刻を扱う職人は350人ほどである。しかしこれらの人々は、逐一、原木から彫っているわけではない。ここには、ダルエスサラーム近郊の農村部や、タンザニア南部のムトゥワラ州から概形を彫っただけの木彫が運び込まれており、職人たちはやすりがけや破損個所の補修といった仕上げ作業を行う。彫刻の全工程を1人でこなす人はほとんどおらず、さらに作業の大半は請負である(写真3)。概形を彫られただけの彫刻を購入した店の経営者などが、その仕上げ作業を職人たちに依頼するというわけだ。職人のなかでも、多少なりとも金銭的余裕のある者は、請負作業の合間に自ら購入した彫刻に仕上げを施し、懇意にしている店舗で陳列させてもらうこともある。

写真4 プワニ州キサラーウェ郡、アフリカ黒檀伐採拠点。彼らは右奥の三角の小屋で寝泊りしている。
  農村部と都市部との間でこのような分業体制が成立した理由はいくつかある。第1に、アフリカ黒檀は1cm3あたり1g 以上もの比重をもつため、ダルエスサラーム市内まで丸太のまま運ぶよりは、むしろ材の伐採地(写真4)や、その近辺の農村で加工したほうがよい。第2に、農村部では布(紙)やすりや接着剤といった仕上げ作業に必要なものが手に入りにくい。第3には「やすりを買って来て(時間のかかる)仕上げをして売っても、たいして高く売れるわけでもない。概形を彫ってそのまま売った方が金になる」という。

  ところで木彫の名称は2つの系統に分類することが可能である。まず1つ、キリンやマサイといった彫刻の対象となる主題そのものの名称がある。次に、彫刻の形態や様相そのものが彫刻の1つの種類として認知されている場合には、その様式(形式)に付与された名称がある。これらの例として以下のようなものが挙げられる。まず、主題に関する名称としては、

  • キリン(写真5)
  • ゾウ(写真6)
  • マサイ(写真7)
  • タンザニア女性(写真8)
  • 老人(写真9)
写真5 「キリン」 約40cm。 写真6 「ゾウ」 中央のもので約20cm。
写真7 「マサイ」は東アフリカの一遊牧民の民族集団名。約40cm。 写真8 「タンザニア女性」は若い女性が魅力的に彫られたものについていう。約15cm。
写真9 「老人」 約50cm。

などがある。また、様式に関する名称としては、

  • ウジャマー(写真10)
  • シェタニ(写真11、12)
  • スケルトン(写真13)
  • マウィング(写真14、15)
  • マドンナ(写真16)
写真10 「ウジャマー」はスワヒリ語で「親戚関係」「兄弟関係」の意。人々が重なり合って支え合い、柱状になっている。写真のものは「ウジャマー」の大きさとしては、最も小さい部類に入る。約30cm。 写真11 「シェタニ」はスワヒリ語で「悪霊」の意。悪霊そのものを彫るため、形態的自由度が高い。中央のもので約50cm。
写真12 「シェタニ」 高さ40〜50cm、巾50〜60cm。 写真13 「スケルトン」は英語の「skeleton」に由来。四肢が極端に細く加工された人物像。約20cm。
写真14 「マウィング」スワヒリ語で「雲」の意。人を主題とし、丸みを帯びた形態を特徴とするもの。約30cm。 写真15 「マウィング」 約20cm。
写真16 マサイのマドンナ。「マドンナ」は平板を彫刻したもので、基本的に1対1組になっている。2対のマドンナから片方ずつ並べた。大きいものは約60cm、小さいものは約43cm。アフリカ黒檀製。

  などが挙げられる。たとえば、写真16のようなものを注文する際には、作り手に「マサイのマドンナが欲しい」と伝えればよい。ただ、キリンを彫るのに長じていると認識されている彫刻家が受ける注文はキリンの注文ばかりであり、その結果として彫刻家は始終キリンを彫ることになる。普段はそのようなキリンばかりを彫っている彫刻家には、ウジャマーを作ってほしいという注文は来ないし、逆もまたしかりである。

  彫刻がマコンデ村に運び込まれるのには、普段マコンデ村で彫刻を扱う人々が農村部にいる彫刻家のもとへ直接出かける場合と、農村部の彫刻家自身や、農村部とマコンデ村を結ぶ仲買人によって木彫が持ち込まれる場合との2通りがある。十把一絡げに木彫を買い上げて薄利多売で商売を行うのであれば、どのような彫刻を仕入れるかにさしたる配慮は必要ない。しかし、一方で高く売れるであろうそれなりの質のものを揃えたいと考えている者もいる。これらの方針選択に資本金の有無は無関係ではない。自ら彫り手のもとに赴かなければ、良質のものを手に入れることは難しく、さらに良質なら値段も張るわけで、その値段を抑えるためにも農村部へ行かなければならない。

  仕入れ手から彫刻者へ「このようなものを彫って欲しい」という意思伝達が行われるとすれば、農村部への買付け時ということになる。とはいえ、多くの場合、先に述べたように仕入れ手はその彫刻家がすでに彫っている特定の作品を目当てに出かけていくのである。すなわち、彫刻そのものの微妙なニュアンスについて討議されることがあっても、「見たこともない彫刻を彫ってくれ」という試みが画策されるとは考えにくい。とすればこのような現状で新たな彫刻が生まれることはないのか。アフリカ黒檀の彫刻作家として世界的に有名になった、経済的余裕のある一握りの彫刻家たちが彫ったものが模倣され、そして市場に出回るのであろうか。

写真17 「ブッダ」アフリカ黒檀製。約30cm。
  分業体制が成立したことによって、仕入れ手と農村部の彫刻家との間には「何を彫る(彫ってほしい)か」という展望や判断に関する齟齬が生まれると思われる。お土産彫刻は、俗に「airport art」とか、「souvenir art」とかよばれており、独創性のない大量生産品であるというように、往々にして手厳しい評価を下される。もちろん、そのような側面があることは否定できない。前述の「シェタニ」は「1960年代にインド人商人の経済的支援のもとに生み出された新たな形式2) 」である。つまりいわゆる商業主義によってアフリカ黒檀製の木彫が刷新されたわけである。彼は彫刻家に丸太を与えたが「どのように彫って欲しいか」を具体的に提示することはなく、できあがった作品が気に入ればそれを買い上げていただけだった。これをふまえれば、仕入れ手と彫り手の間の「何を彫る(彫ってほしい)か」に関する企図が食い違いうる状況においても、それまでにみたこともない独創的作品が生まれ、それを商人が市場に出す可能性は十分にあると考えられるが、実際はどうなのだろうか。逆に商人が彫り手に注文を出すという現在の状況は、大量生産品の製作に拍車をかけるとも考えられる。この答えを出すまえに私が見聞きしたことを紹介したい。

  あるとき、「お前は日本人だろう。ブッダの彫刻があるんだが買わないか。まあ、とりあえずは見に来い」といわれて、陳列棚で対面したのが写真17の彫刻だった。仏教の話題はよくわからないのだが、それにしてもこれが少なくとも日本でブッダとよばれるものではないことはわかる。その体格から七福神の1人ではないかとあたりはつくが、それ以上のことは見当もつかない。彼は落胆気味に「これはブッダではないのか」と聞いてきたが、「おそらく中国からの観光客が注文して作ったものではないか。日本ではみたことがない」としかいいようがない。「これは誰が彫ったのか」と尋ねれば、「わからない。村から持ち込まれたので買った」との答え。

  それから約1年経っても、この彫刻には買い手がつかず放置されており、彫刻の持ち主に哀願されて結局私はこれを購入することとなった。日本に着いてから、知人をつかまえてはこれがいかなるものかを聞いて回ったところ、多くの人から「(袋を持っていないが)おそらく七福神の布袋和尚ではないか」という回答を得たが、布袋和尚がどこをどう巡ればブッダとつながるのか、いまいち腑に落ちなかった。

  そんなとき、ちょうど中国からの留学生や仏教愛好家と相席する機会があったので、この疑問をもち出してみた。聞けば、どうやら「中国では布袋と弥勒菩薩は同一物である」ということらしい。そうなると、おそらくタンザニア人に「これは何か」と聞かれた中国人が「ブッダ(という仏教の神様のようなもの)である」という相手にわかりやすい答えをしたのだろうという推測がたち、一同「なるほどそんなところだろう」と合点がいったのであった。

写真18 「日本の神様」約1.5m。
  ところが、もう1つ、「日本の神様だ」と紹介されたものがある(写真18)。運良くこの彫刻を注文した人とも話すことができたが、「美術写真集でこの日本の神様をみつけた。ヨーロッパあたりに売るつもりだ」と意気揚揚と私に語ってくれた。私にはこれが何であるかまったく思い当たらなかったが、これはマコンデ村で彫られていたため、多くの人が私に「日本の神様をみたか?」といっては、それに対する説明を求めてくるのにはいささか閉口した。

  先ほどの作品と同様に、日本で知人たちにその写真をみせて「タンザニアで日本の神様に出会った。しかし一体これはどういうことだ」と問いかけてみた。私自身は悩んだあげく「ポリネシアあたりの神様だろう」という憶測に落ち着いたのだが、意外なことに知人たちはその彫刻に「日本」を見出していた。「腰のあたりの衣服から、ヤマトタケルノミコトの時代の人では」とか、「掌を見せているのは、仁王像をアフリカ風にデフォルメしたものなのでは」という人もいたし、はたまた「顔がのっぺりしているところをみれば、いかにも仏像ではないか。(仏像の)寂静とした雰囲気が醸し出されているといえないこともない」などという想像逞しい意見が聞かれた。しかしどの意見も、今ひとつ「日本の神様」の来歴をうまく説明するには至らなかった(識者の方々のご判断をお聞かせ願いたい)。

  その邂逅から約1ヵ月がたち、「日本の神様」はすでに完成して運び出されていた。ある日、私はまた別の彫刻家に呼び止められた。「おい、お前これを知っているか」そう言って見せてくれたものは、高さ1mほどで、材にはアフリカ黒檀が使われていたが、先日目にした「それ」を主題としたものであることは一目瞭然であった。そして彼は誇らしげに「日本の神様だ」と付け加えた。

  大いなる誤解、まさにここにきわまれりといった感があるが、むしろこのようなできごとが彼らの彫刻を刷新していく契機となることもあるのではないだろうかと思う。この「日本の神様」は写真を模倣して作られたものだが、その製作には比較的独創性を必要とすると考えられる「シェタニ」「ウジャマー」「マウィング」といった彫刻が広く作られ、新しい形式として受け入れられていった過程もまた、模倣の繰り返しであったに違いない。模倣は新たな創作の試みに追随する洗練の試みであるともいえる。

  「シェタニ」の様式の創生に寄与した「インド人商人の経済的支援は、形式の変化を生み出すには十分でなかったが必要であった(注2 参照)」という。他方「ウジャマー」は、ダルエスサラーム北部にあるボコ村で1人の彫刻家が彫りだしたが、「シェタニ」の場合とは異なり、購入行為以上の商人からの庇護はなかった。一作品が形式として継承されていくためには、彫刻を店頭に並べる商人、ひいては観光客が食指を動かすことが必要であろうが、その端緒としての創造行為は商業主義とは無関係に、常に行われているのではないかと思う。もしもこの「日本の神様」が作られ続けるのならば、よりいっそう洗練されていき、そして観光地のお土産品店で「新しいアフリカ黒檀彫刻」と銘打たれた「日本の神様」に、出会える日が来るかもしれない。

引用文献
Kasfir, S, L. 1980. Patronage and Maconde Carvers, African Arts 13(3): 67-70.

1) The Mpingo Conservation Project. http://www.sbcomp.demon.co.uk/ (2004年8月8日)
2) 「Samaki がシェタニを初めに作ったのは1959年」とあるが、当時まだ「(シェタニとして)模造する原型がまだなく」、その洗練されていくまでの暗中模索の時期を考慮し、ここでは「1960年代」と記した [Kasfir 1980].

『アジア・アフリカ地域研究』第4-2号掲載: 2005年3月発行

 
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