報告
 
  21世紀COEプログラム ラオス・スタディ・ツアー報告

「水と人々 ―バンコクワークショップ、ラオス・スタディ・ツアーの風景から」

伊藤義将(アフリカ地域研究専攻)
 
出張期間: 2005年11月26日〜12月1日
参加したワークショップとスタディ・ツアー: Coexistence with Nature in a ‘Glocalizing’World
-Field Science Perspectives-および
北部ラオス・スタディ・ツアー
ワークショップの開催場所と主催したフィールド・ステーション:

ラオス人民民主共和国、ラオス・フィールド・ステーション

報告者の研究対象地域(関連フィールド・ステーション): エチオピア(エチオピア・フィールド・ステーション)

 

1. はじめに
    バンコクでの国際シンポジウムが終わると、我々はチャオプラヤ川デルタ地域へのエクスカーションとラオス人民民主共和国へのスタディ・ツアーに参加した。本報告書ではエクスカーションとスタディ・ツアーに関して「水」という視点からの報告を試みる。

 

2. 水のちから
 
写真1: 沈みかけた寺院
写真2: 寺院から見る風景
  シンポジウムの翌日、我々はバスでチャオプラヤ川デルタへと向かった。バスの窓越しには巨大な工場がいくつもならんでいた。この地域は工場などで使われる工業用水に地下水を利用しており、地下水の過剰なくみ上げによって地盤沈下が進んでいるという。バスの窓から見える景色にも地盤沈下の影響を確認することができた。バスを降りると我々はボートに乗り換えチャオプラヤ川の河口に向かった。
  チャオプラヤ川の河口付近にはマングローブ地帯、エビなどの養殖場、塩田などが広がる。しかし、この地域は年間35mというペースで海に飲み込まれており、マングローブ地帯も後退している。周辺に住む人々は以前はもっと海よりで生活をしていた。しかし、地盤沈下によって陸地が海に飲み込まれつつあるため、少しずつ内陸部への移動を余儀なくされている。我々が訪問したときは満潮だったが、干潮時には海に飲み込まれてしまった学校や家がむなしく姿を現すそうだ。河口にある寺院は満潮時になるとその3分の1程度が海に沈んでしまう(写真1、2)。このまま何も手を下さなければ20年後にはこの地域一帯はすべて海に飲み込まれてしまうそうだ。「何か手立てはあるのか?」という質問に対して、現在実験中ではあるがコンクリートの防波堤とマングローブを組み合わせた新型の防波堤を作る計画があるとのこと。しかし、それだけでは海の侵食を防ぐことはできないだろう。まだ、何も手立てが見出せずにいるのが現状ではないだろうか。
  今回バンコクで行われたシンポジウムの最初のセッションは“Learning Lessons from Recent Disasters in the Indian Ocean”というタイトルで津波被害に関する発表が行われた。人々に恵みをもたらす海が時には人々の命を奪う恐ろしい海へと変化する。チャオプラヤ川の河口に住む人々は海からの恵みを享受して生活していると同時に、海によって生活空間を奪われつつある。この地域の地盤沈下は工業用水としてくみ上げられる地下水が原因となっているが、水との付き合い方を少し間違うことによって水は恐ろしいちからを発揮するものであると改めて感じた。

 

3. 「路(みち)」としての水
 
写真3: 川辺の家
写真4: 川に建てられた電信柱
写真5: メコン川へと続く大階段
  チャオプラヤ川の河口へ向かう途中のボートからは不思議な景色を見ることができた。川沿いに家が立ち並び、家の前にはボートが停泊している。ボートに乗りながら作業をする人々、水際に座り込み近所の人々と川端(?)会議をする人々(写真3)。途中で川が合流している場所などを右へ左へとボートは進む。ふと、川辺に目を移すと電信柱が水のなかに立てられており、電線が電信柱を結んでいる(写真4)。大型の台風が襲ったアメリカ南部の都市を思い出す。そこで気がついた。これは私がイメージする川ではないんだと。この水は人々が移動するための路(みち)である。そのように考えると先ほどまで不自然だった「町」の風景が自然に思えてくる。水際での川端(?)会議は玄関前での立ち話。ボートや船着場は自家用車とそのガレージといったところだろうか。川が合流している場所はT字路だ。一度この風景に慣れてしまうと、むしろ水のT字路に信号がないことが不思議に思えてくるようになった。
  翌日、私を含む学生7名と教員2名はラオス人民民主共和国の古都ルアンパバーンに到着した。ルアンパバーンの町はメコン川沿いに位置する。メコン川とカーン川が合流する町の東端にはシエントーン寺院がある。ガイドブックを読むとこの場所にはビエンチャンの商人チャンターパニットの自宅があったといわれ、彼の功績を称えてセッタティラット王が彼の死後にこの寺院を建てたという。商人チャンターパニットはある日、「塩を持って北部に行けば大金持ちになれる」という夢を見て、船でルアンパバーンに塩を運ぶことによって一財を築いたという。この寺院の成り立ちにも路(みち)としての川が大きな役割を果たしている。実際にスタディ・ツアーの5日目にシエントーン寺院を訪ねると、表玄関と思い入場した入り口の反対側には更に大きな入り口があった。そこには大きな階段があり両脇には狛犬らしきものが建てられている。そして、その大きな階段はメコン川へと続いていた(写真5)。我々が寺院に入った道路側の入り口は「裏口」であり、メコン川に続く階段こそが寺院の「表玄関」だったのである。私が寺院を訪問した際に川から寺院を訪れる人々は見当たらなかったが、メコン川を「路(みち)」として人々はやってくるのだろう。
  世界地図をざっと見ると、そこには海、川といった世界を分断するような「障害物」と思える水が散らばっている。しかしながら、一見世界を分断するような水は必ずしも世界を分断する「障害物」ではなかった。地図上でアラブ世界とアフリカ大陸を分断しているように見える紅海はアラブ世界とアフリカ大陸をつなぐ「路(みち)」であった。私が調査を行うエチオピア南西部のギベ川流域からは6世紀ごろからアラブ地域へと奴隷や麝香が送られ、イスラム教はアラブ世界から紅海をわたりエチオピアに広まった。調査地近くのコーヒーの原産地と考えられているカファ地方からコーヒーがアラブ地方にもたらされたのもこの水の「路(みち)」からだったのかもしれない。
  メコン川もまた右岸と左岸を分断する「障害物」ではなく、右岸と左岸をつなぐ水の「路(みち)」だったのだろう。今回のツアー中に何度か川を目にする機会があったが、そこには必ずといっていいほど小さなボートが浮かんでいた。今でもメコン川やその支流は人々の「路(みち)」として機能しているのだろう。

 

4. 水のある生活
    バンコクを離れて2日目の朝、我々はルアンパバーンを出発しラオス北部のナーヤンタイ村を目指した。出発して2時間ほどすると小学生の頃に社会科の資料集で見たような高床式倉庫のような家がポツポツと増え始める。次第に車窓から見えるほとんどの家が高床式倉庫のような家に変わる。バスに乗って4時間が経過したころにふと田園地帯の真ん中にオアシスのような風景が浮かび上がる。そこがヤシの木に囲まれ、ルーの人々が暮らす村、ナーヤンタイ村であった(写真6)。自分自身の調査地であるエチオピアの農村は散村であり、近所の家の距離が遠く離れているので、「これが集落なんだ」と一種の感動を覚えた。村の中でバスを降り、高床式の家に囲まれている自分はなぜかとても不思議な、しかしとっても心地のよいなんとも言葉では表現できないような気分に襲われた(写真7)。
 
写真6: ナーヤンタイ村: その1 写真7: ナーヤンタイ村: その2

  ナーヤンタイ村では人々が水資源を非常にうまく利用しているという印象をうけた。この村のそばには小川があり、村の外周を一周するように流れている。村の人々は主にもち米を水田で栽培しており、村には外周を流れる川の水を水田へと導くと同時に水田から川へと水を戻す仕組みが出来上がっていた(写真8)。この村で調査を行っているアジア地域研究専攻の吉田さんの話によると、同じ水路を使って水田に水を引いている人々が共同で水田の作業を行うという。この村では水が人々を結び付けているように感じた。
  水田ばかりではなく村の人々はため池で魚や海苔の養殖をしたり、裏庭の囲いに水を貯めて蛙を養殖したりしている(写真9、10)。また、井戸でくみ上げた水が無駄にならぬよう、井戸のそばには樹木が植えられ排水が樹木の根元に届くように工夫されていた(写真11)。翌日の朝食の食卓には蛙や海苔、もち米、雨水を薬草と一緒に沸騰させたほんのりとお茶のような香りがする飲料水など、水の恵みを豊富に享受した食事がならぶ(写真12)。ナーヤンタイ村の人々は水の大切さを知り、無駄なく水を利用した生業活動を行っているように私の目には映った。村の外周を流れる川。人々がこのように川の流れを変えたのか、それともそのように流れる川のそばに村を作ったのかはわからないが、人々は水とともに生活している。
 
写真8: 水田に水を引くための堰 写真9: ため池
 
写真10: 蛙の養殖場 写真11: 井戸の排水を栽培している樹木に利用する
写真12: 調理される蛙

  2004年の6月、私はエチオピア北部のラリベラという場所を訪問した。ラリベラは世界遺産である岩窟教会が多く残る観光地である。しかし、この地域は毎年のように水不足に苦しめられている。ラリベラ市長の話によると外国人観光客が宿泊する政府系の高級なホテルが優先的に水を使ってしまうため、町の人々には十分な水が行き届かないという。観光という町の最大の収入源が町の人々を苦しめている。市長は雨さえ降ってくれればこの町のすべての問題は解決すると話してくれたが問題はそれだけではなさそうである。この地域は過去に豊富な森林に覆われていたという。周辺の森林を破壊してしまった代償だろうか。根本的な問題として水と人々の生活がどこかで断ち切られてしまっているように感じた。ナーヤンタイ村のように水と人々が共に生活するときがラリベラにはやってくるのだろうか。

 

5. まとめにかえて
    今回の国際シンポジウム、エクスカーション、そしてラオスへのスタディ・ツアーにおいてあらゆる姿の水を見た。産業の発展を促すと同時に人々の住居空間を奪う水、「路(みち)」の役割を果たす水、農村に潤いをもたらす水。水は姿を変えてはいるが必ず我々の生活に密接に関係している。
  エチオピアの私のフィールドは年間降水量が1500mm程度あり、乾季、雨季に関係なく雨が降るというエチオピアでも非常に珍しい森林地域である。人々にとって水はいつでも近くにあるものと認識されているように感じる。しかし、この地域の水はエチオピア南部の乾燥・半乾燥地域を流れ、ケニヤのトゥルカナ湖に注ぐオモ川の源流である。ここに住む人々の水利用はエチオピア南部で暮らす人々の生活に大きな影響を与える可能性がある。フィールドで調査を行っている際には特に意識をしなかった水であるが、今回のシンポジウム、スタディ・ツアーを通じて、水という視点からもフィールドを眺めてみる必要があると実感し、人と水とのcoexistenceを改めて考えさせられた。
  最後にこの場を借りて、シンポジウムの準備をして下さった関係者の皆様、スタディ・ツアーの準備をしていただいたラオス・フィールド・ステーション駐在員の増原さん、ナーヤンタイ村で我々の受け入れ準備と世話をしてくださったアジア地域研究専攻の吉田さん、そして、まとまりがなく、好き勝手な要望を出し、自由奔放に行動する我々学生を引率してくださった竹田さん、岩田さんに心から感謝いたします。
 
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