報告
 
  21世紀COEプログラム ラオス・スタディ・ツアー報告

「バナナと木綿 :ラオス北部タイ・ルーの染織と物質文化」

風戸真理(日本学術振興会特別研究員・アフリカ地域研究専攻)
 
出張期間: 2005年11月26日〜12月1日
参加したワークショップとスタディ・ツアー: Coexistence with Nature in a ‘Glocalizing’World
-Field Science Perspectives-および
北部ラオス・スタディ・ツアー
ワークショップの開催場所と主催したフィールド・ステーション:

ラオス人民民主共和国、ラオス・フィールド・ステーション

報告者の研究対象地域(関連フィールド・ステーション): モンゴル国、ロシア連邦

 

1. 21世紀COEプログラムによるワークショップとスタディ・ツアー
 
写真1: ポスターと私
写真2: 水没しつつある寺院
  2005年11月23〜24日、バンコク市のナイ・ラート・パーク・ホテルで第7回京都大学国際シンポジウム「地球・地域・人間の共生 -フィールド・サイエンスの地平から-」が開催された。これはアジア・アフリカ地域研究研究科の21世紀COEプログラム「世界を先導する総合的地域研究拠点の形成:フィールド・ステーションを活用した臨地教育体制の推進」事業の一環である。私はこれに参加し、“What is O’voljoo for the Mongolian Herders? -The Right to Land in Pastoral Regions in Postsocialist Mongolia” と題するポスター発表と、その内容に関するショート・スピーチをおこなった(写真1. 本文中の写真はすべて風戸真理撮影 )。
  11月25日から12月1日にかけて、上述のCOEプログラムの一部として地域間比較フィールド・スタディ・ツアー「東南アジア大陸部の農業生態の特徴とその発展の可能性」が行われた。11月25日にはタイ王国(以下、タイとする)で、11月26日から12月1日までは、ラオス人民民主共和国(以下、ラオスとする)とミャンマー連邦で同時並行してスタディ・ツアーが開催された。
  11月25日のタイでのスタディ・ツアーは、バンコク市郊外のチャオプラヤ河口のマングローブ地帯の環境変化の観察であった。この村には約400年前にこの地にやってきた漢人の子孫が主に暮らしており、漢字の書かれた中国風の新しい寺院が現在の村の中心地に建っている。ここでは日本に輸出するための高級エビの養殖のためにマングローブ林が切り拓かれて開拓が進められたが、病気が発生して養殖池が汚染され、エビ養殖が行えなくなった。現在ではエビよりも商品価値は低いが、劣悪な環境にも適応するアカガイとカニを養殖している。この村の人々の生活を脅かしている問題は、地盤沈下と海岸浸食のために陸地が後退し、かつての村の中心が水没し、学校や寺院といった公共施設が海の底に沈みつつあることである。そのなかで村人は、祖先が建てた寺院を守るため多大な努力をはらっていた。寺院の周囲に堤防を築き、水中に長い足を建てて僧院やその他施設を水上施設として維持していた。また現在の居住地の中心から長い渡り廊下を建築して寺院へのアクセスを確保していた(写真2)。止めることのできない地盤沈下と海岸浸食に住人は困っている。

 

2. ラオス広域調査報告
 
写真3: バンコク航空機からみたラオスの焼畑
写真4: バナナの花・茹でたビーフン・香菜等を葉野菜で包み、つけだれで味付けて食べる料理。中央がバナナの花

  11月26日から12月1日には、私はラオスを訪問するチームに加わった。ラオス・スタディ・ツアーのメンバーは、京都からは岩田明久助教授(ASAFAS教員)、竹田晋也助教授(ASAFAS教員)、東南アジア専攻の安達真平、内藤大輔、飛奈裕美、アフリカ専攻の近藤史、八塚春名、伊藤義将、風戸真理の9名、そしてラオス国立大学からダーヴォーン先生が参加した。日程は次の通りである。

  11月26日にバンコクからルアンパバーンに飛行機で移動した(写真3)。小さいが感じのよい空港から、屋根付きの軽トラを2台雇って街の中心部のゲストハウスへ向かった。17時頃、JICAのラオスにおける活動のひとつである「ラオス森林管理・住民支援プロジェクト」(FORCOM)オフィス(在ルアンパバーン)を訪問し、チーフ・アドバイザーの岩佐正行氏からプロジェクトの概要をご説明いただき、実際のプロジェクト実施における問題点などに関してディスカッションした。その後、FORCOMスタッフと一緒に、ルアンパバーンの郷土食(薄切りにして干したカブラの揚げ物、魚のホイル包み焼き、バナナの花をはじめとした生野菜、ビア・ラオ)を食べた(写真4)。岩佐氏は私たちをご自宅にも招いて下さり、住民主体のプロジェクトを進めるなかで地元の人々とラポールをとるための工夫のひとつとしている手品を見せて下さった。

  27日、ルアンパバーン県ナムバーク郡ナーヤンタイ村を訪問した。2人の通訳が加わり、バスで出発した。途中、市場で買い物した。ナーヤンタイ村では約100世帯、500人のタイ・ルーの人々が水稲耕作を中心とした農業に加え、森林や川からの採集、そして染織(これについては後述する)などの手工芸によって生計をたてている。この村は、在来の文化がよく保存されているとして「文化村」として行政から指定を受けていた。ここでは東南アジア専攻の大学院生の吉田香世子氏が宗教人類学の観点から、上座部仏教の実践のひとつである少年の出家という習慣とその変化を村の生活全体に位置づけて理解するとともに、その近年の変化に注目してこれが村に与えるインパクトについて調査している。

  村に着くと、吉田さんが案内してくれて全員で村内を歩いて見た。ほとんどの家が高床式で二階部分は竹の網代壁か板壁で覆われている(写真5)。1階部分は柱だけで囲いがなく、高織機1台、藍壺3〜4つ、漁具、トリカゴなどがおかれていた。家の周囲には樹木が植えられているが、目隠しになるような垣根はない(写真6)。村はずれに寺院があり、少年僧が所属していた。寺院の外側には村の共同管理下にある水田が広がっていた。日没後、川で水浴びをした。夜は、村の政治的長(村長)の家と民間の世話役の家に分宿した。後者は吉田さんが父母とよんでいる方で、彼女はその家に寄宿して調査している。私は村長宅に泊まった。

写真5: 高床式の家 写真6: 家の前で調理と団らんする人々

写真7: 稲の脱穀を観察・体験する私たち
写真8: 学校で勉強する生徒と、手織りの布で手作りされたカバン
写真9: ナーヤンタイ村の村長の家での村人と私たちの共食

  28日は、村近くの水田で脱穀作業を観察・体験した(写真7)。吉田さんによると、灌漑システム上ひとまとまりとされる(一つの取水口から水を取る)水田群では、稲の刈り取り・脱穀・運搬の作業を一斉に行い、水牛による食害を抑えている。作業を短期間で終わらせるためには労働交換が行われている。労働交換は基本的に2世帯間の関係として、1人1日の労働を提供すると、同じ労働が後で得られるという相互扶助であるが、このような関係の集積として大量の労働力動員が可能になっているという。水田の相続は、原則としてキョウダイ全員に均分相続される。利水は堰灌漑が主であるが、天水田も一部あるということである。

  午後、村の学校と幼稚園を見学した(写真8)。そのあと、新しい生計手段や技術を積極的に取り入れている世帯の小規模多角経営の試みを見せてもらった。彼らは出作り小屋で、養魚、カモ飼育、養蜂、鉄鍛冶、トンキンエゴノキの植樹を始めていた。これは吉田さんが寄宿している世帯である。

  午後、村長の家でバーシーとよばれる儀礼が行われた。去りゆく私たちに旅の安全と将来の安寧を祈念してくれるものだった。約15畳の部屋には中年・老年の男女が約20人座っており、彼らは肩に工業製品のタオルや手織りの布を約10cm×60cmに折りたたんだものを載せていた。部屋の中央には、盆の上に生のバナナの葉で塔が建てられ、竹串に約25cmの生成の綿糸を2つ折りにして約20本ずつのれん状に軽く結びつけたものがたくさん刺されている。盆にはバナナの房が複数おかれ、マリーゴールドなどの花が飾られている。私たちは盆の縁に手を触れるように促され、男性の1人が言葉を唱えながらバナナの葉を丸めて漏斗状にしたものの先を水(?)につけ、その水を私たちの手に時計回りに順につけていく。バナナの葉を何度も水に浸しつつ、3巡した。次に綿糸のついた串を1本取り、そこから綿糸を取って私たち1人1人の両の手首にかた結びする。その間も言葉を唱えている。一巡すると、それまで座ってみていたほかの男女が立ち上がり、串から糸を取り、近い場所にいる客人の手首に言葉を唱えながら糸を結ぶ。吉田さんの説明では、この儀礼はよい言葉を声に出しその言霊を糸に託して私たちに固定するものである。そのときに儀礼用の古い言語も使われる。私たちはたくさんの人々から1本または2本ずつ糸を結ばれ、最後には両腕に10本から20本もの生成の糸を結びつけられていた。糸がなくなったとき、私たちは盆の上にあったバナナを1本ずつ分け与えられ、儀礼が終わった。

  儀礼の中で重要な位置を占めていたモノに注目すると、それはバナナとその葉、そして綿糸および綿織物だった。バナナと綿が象徴的な中心をなす文化に初めて触れてとても興味深かった。このような儀礼のなかで綿糸を使うのはタイ・ルーの文化ではなく、ラオの影響であるという。首都ビエンチャンの大学で受けた儀礼も基本的に同じであった。こちらはラオの正統な習慣であると思われる。

  儀礼のあと、儀礼に参加した男女すべてと私たちが食事をともにした(写真9)。この村で私が食べた食事をまとめると、主食としてのモチ米におかず1〜2品(シチメンチョウ、ニワトリ、カエル、タケノコ、青菜のうち1つか2つが組み合わされた汁)とおかずの役割を果たすつけだれであった。

  儀礼の後、私たちはバスでノーンキアオへ向かった。日没近くなって到着し、川辺のレストランでの夕食(炙ったマメジカなど)にはFORCOMプロジェクトの渡辺さんが合流して下さった。竹田さんによると、ここは欧米人バックパッカーのあいだで密かに注目されている場所であるという。

  29日、ルアンパバーン県ビエンカム郡サムトン村へ向かう。カムの人々の村である。ここではFORCOMプロジェクトの支援のもとで焼畑から小規模多角経営への移行実践が行われている。FORCOMプロジェクトから、渡辺さんのほか、県のカウンターパート2人(写真10)がプロジェクトから支給されたバイク(写真11)で来て、一緒に焼畑と実験集落を見学した。FORCOMプロジェクトは、もともと焼畑の出作り小屋が集まって集落のようになっていた場所を、ヤギ・ブタ・ニワトリを集約的に飼育する拠点としていくことで、森林を保護しつつも住人が現金を獲得して生活していけるよう計画している。とはいえまだ焼畑もあった。陸稲(モチ)を主としてゴマやハトムギが混作された畑を見たが、収穫はすでに終わっていた。一方で、中国人がゴム園造林を数名の農民と個人的に契約して始めているという。

写真10: FORCOMプロジェクトのスタッフたち 写真11: FORCOMのローカル・スタッフが
プロジェクトサイトに通うためのバイク

  昼、学校でご馳走を食べた。モチ米のほか、カボチャ・ムラサキイモ・ヤムイモを塩を入れずに茹でたもの、ラタンの新芽の焼き物、ヤギの生血の凝固物、生のバナナの花を刻んだ和え物という豪華な品揃えだった。モチ米のどぶろくも珍しかった。その後、バスでルアンパバーンに戻り、ルアンパバーンの感じのよいゲストハウスに泊まった。

  30日、午前中はダーヴォーンさん、飛奈さんとルアンパバーン市内を散歩した。12月2日が革命30周年記念日ということで、スタジアムでは記念式典の準備のための集会が開かれていた。街の至るところに、ラオスの国旗と赤字に黄色で鎌と槌がアップリケされた旗が並んで飾られていた。天井の高い古いコロニアル風建築の建物が欧米人好みのオリエンタル・カフェと雑貨屋として利用されているおしゃれな通りの至る所に、鎌と槌の旗がはためいているのは奇妙であった。

  午後の飛行機でルアンパバーンから首都ビエンチャンに向かった。ビエンチャンではラオス国立大学におかれたフィールド・ステーションを視察した。フィールド・ステーションの駐在員の増原善之さんから、1994年以来関係を継続しているラオス国立大学(とくに林学部)と京都大学のあいだでの研究交流と現地への成果還元についてご説明いただいた。難しい状況のなかで、現地への学術成果の還元と現地研究者との学術交流という重要な課題にきわめて実践的にかつ果敢に取り組んでいることを知って感銘を受けた。

 

3. ナーヤンタイ村の染織
 
写真12: ルアンパバーンのクラフト市場

  JICAの「デザイン協力事業概要」によれば、ラオスでは工業・手工業省のなかに1999年から手工業局がおかれ、ハンディクラフトを自家用としてだけでなく産業として活性化する政策がとられている。その対象は、テキスタイル、バスケット、陶器、木彫、銀細工、紙など8つである(写真12)。JICAは遅くとも2003年から、ラオスのハンディクラフトを輸出産業として育成するための支援事業を行っている。ビエンチャンとルアンパバーンの2カ所で、日本の伝統的染織工芸の研究者や実践者、またモダンなデザインを取り入れた染織作家などを講師としてワークショップを開き、デザインを中心とした技術移転が行われている。

  とくにナーヤンタイ村では2003年まで、JICA派遣の専門家による織物の品質向上のための指導が行われていた。当村の主な現金収入は、基本的に手つむぎの綿糸と絹糸を使って手織りされた織物であるが、流通網が未整備であるため観光客に世帯単位で販売しているという。また織機は1世帯に1台以上数えられるという(以上は国際協力事業団の「デザイン協力事業概要」(2003年版および2004年版)による1)。

  私がナーヤンタイ村を歩いたとき、時間帯にかかわらず女性たちが織物(写真13)や糸巻き(写真14)をしている姿がみられた。そして関心を示すと家の中から完成品を出してきて洗濯ヒモにかけて展示する。私が見た限りでは、糸は木綿で、手つむぎのものと工業製品らしいものがあった。色は生成、植物染色、化学染色がある。先染めと後染めがあり、絣のための染めも行われていた。組織は平織りと横糸を浮き上がらせてパターンを織りだしたものがあった。織物は、村の人が普段使うものと、販売用にデザインされたと思われるものに分けられるように思われた。

  村の生活における手織りの布の利用には、衣装用、カバン、手ぬぐい、乳幼児を抱く道具、布団の敷布として使われているのが見られた。

 
写真13: 古いデザインの布を織る女性   写真14: 自作の布を被って糸巻きをする女性

  衣装用には、布を裁断せずそのまま頭からかぶったり首から肩にかける場合と、裁断して身体の形に合う衣装を仕立てる(シンとよばれる膝下丈の巻きスカートやシャツ)場合がある。これらの布の幅は約55cmであった。

  首から上にかぶる布の多くは180〜190cmである(写真15)。半分の長さのものもあり、これは姉さんかぶりのように使われていた。このタイプの布は基本的に、藍染めの黒〜紺青の糸、ラックカイガラムシ染めた褐色〜桃色の糸、そして生成の糸が縦糸と横糸に自由に組み合わされ、平織りで格子柄が織り出されている。両端は三つ折りのうえぐし縫いされている。(写真16)。

 
写真15: オレンジと黄緑の格子柄の布を頭にかぶり、
長い裾をはためかせながら脱穀作業をする男性
  写真16: 村人が頭などに被ったり手ぬぐいとして利用する布。
私たちに販売するために展示されている
写真17: 農作業をする女性たちの服装
写真18: 3つの部分からなるシンをまとい、布を利用して子どもを抱く女性たち。この方々はサムトン村のカム
写真19: 洗濯され干してあるシーツ

  村人の衣服には、自作の布を用いて仕上げられた上着とシン、よそから買ってきた布を用いて作られたシン、そして既製服があった(写真17)。シンに注目すれば、多くの女性が機織りをしているにもかかわらず彼女たちのまとっているシンは、他の村で作られたものを購入したり、工業製品を購入したものが多いようであった。その中にも工業製品のように見えるものと手作り風のものがあった。とくに長く着てきたことが見て取れるシンは、腰の部分(面積は小さい)と太ももから膝のあたりを覆う中央部分(最も大きい)と裾の部分(小さい)の3つの部分が異なる織りの布を縫い合わせて作られていた2。年長女性のシンは中央部に最も装飾性に富む生地を使っており、若い女性は紺や黒のシンプルなスカートの裾だけにおしゃれな飾り布をつけていることが多いように見えた。シンやシャツを仕立てるための布は、藍の後染めであり、メートル単位で販売されるという。

  乳幼児を抱く道具として利用される布は、首から上にかぶる布と大きさ・織り方・デザインともに同じようである。このバスタオル大の薄手の綿布の両端を結んで輪にし、これを首からかけて胸のあたりを広げて子どもを入れる(写真18)。このタイプの布利用は日本では一般にベビー・スリングとよばれ、もともと南米の先住民などの育児を参考にして開発されたものが、近年導入され普及している3

  敷布として使われる布は、縦糸が生成である。全体の半分以上が縦横ともに生成糸の平織りで、下3分の1ほどの部分が赤や黒(紺)に染められた横糸を使って伝統的な文様である菱形や龍のほか動物や鳥などが織りだしてある(浮き織り)。布の両端あるいは一端には羅(1本の縦糸が隣り合う2本の縦糸に左右交互にねじれる)が1段入れてあり、装飾効果を高めている。そして2枚のまったく同じ柄・大きさに織られた布が真ん中で縫い合わせられて、布団の大きさにあわせられていた(写真19)。私が気に入った敷布は、縦糸の末端が小房に分けられた上4本取りで結び目が繰り返し作られることで、レース状の装飾がほどこされていた。

  販売用にデザインされたと思われるものは幅が多様である。私が入手した布のなかで幅が狭いものは36〜45cmで、最大幅は80cmであった。幅狭なのは、縦糸・横糸ともに密度を規則的に変えることで正方形のすかしが入るように織られたおしゃれなストールである。幅広のは、トルコのキリムに使われるような文様を大きく中央に配置してあり、色もシーツに使われる原色とは異なる淡く明るい色である。

  私はナーヤンタイ村で9枚の布を購入し、1枚の布を宿泊した村長の家の妻からプレゼントされた。5枚までが野良作業に使われるようなチェックの布で、ほかは伝統的といわれるものに近いデザインのシーツ1(私が泊まったときにシーツとして敷いてくれたもので、シミが付いていたが気に入ったので、頼んで譲ってもらった)、伝統的な菱形模様が全面に織り込んであるシーツの半分の大きさの布1、キリムのような模様の広幅の布1、透かし模様のストール2である。

  織り手たちとの交渉でおもしろかったのは、おしゃれなストールを作った女性は、私がそのときに首に巻いていたインド製のストールに興味を示した。これは、まったく不揃いに撚られた糸が一部黄色、一部水色に染められたものが縦糸・横糸ともに使われており、縦糸の密度が両端と中央において密で、その間が疎である。組織は全てが紗である。私が首からはずして手渡すと、ほかの女性と一緒にその組織を凝視していた。また別の機会には、飛奈さんがカバンの上にかけてあった柔毛の複雑な織りのストールを村の女性たちが触りながら組織を調べていた。織り手たちが、外部者のもちこんだ染織製品を見て、機会を逃さずにその技術を知ろうするのを見て、物作りにたずさわる人に共通する技術革新欲をかいま見た気がした。彼らは今のところ販路開拓をなしえていないが、外部からの技術援助を受けて様々な新しい試みを始めており、その技術とデザインは私にとって興味深いものであった。私は実は、この村であまりにも織機の数が多く、また時間帯を問わず織り作業をしている人が見られたことに加え、この村が「文化村」であり、JICAのデザイン指導を受けていることを知って、私が見ているのはすべて私のような外からやってくる観光客の視線と購買力を意識して創られたものなのではないか、という疑念を抱いた。だが織り手たちが私たちの持ち込んだ織物に対して、ただおもしろいから見ずにはいられないという態度で興味を示すのを見たとき、やはり物作りをしている人のなかには、国家の政策や利益をとは別に、新しい技術やアイディアを学び、編みだし、そして試すことそのものの魅力に突き動かされて行動するような一面があると感じた。彼女たちが私と同じ地平で生きていることを実感した一瞬であった。

 

4. さいごに:木綿とバナナ
 

  これまでに、バナナを生活や儀礼の中心に位置づける文化があることは知っていた。だがラオスの儀礼においては木綿とバナナの両方ともが必要不可欠のようである。「綿+バナナ・文化複合」(東アフリカのcattle complexにならって)という組み合わせは新鮮だった。

  木綿の利用については、ナーヤンタイ村の染織と布の利用のあり方を見て、彼らが少なくとも一部は自ら紡いで織った布を身にまとい、赤ん坊も大人もそれに包まれて眠りにつく生活を送っていることがわかった。木綿は確かに彼らの生活に根付いている。ただしラオス北部では、繊維としては木綿のほかにカジノキが利用されており、バナナもまた世界中でその繊維の利用が報告されている。バナナの方は、ラオスではどこでもバナナの葉が調理済みの食品の包装に、そして蒸す料理の調理道具としてよく使われていた。

  次に財として、とくに貯蓄材という観点から木綿とバナナを考えてみる。布(木綿布、絹布、芭蕉布など)は一般に、やわらかく、暖かく人を包む力があり、人類進化における繊維の役割はきわめて大きいだろう。だが一方で、時間とともに朽ち果てていくもろさをもつ。バナナは、食物として長期保存に適さない。そして貯蓄財としても穀物と比べて脆弱である。

  タイ・ルーは古くから水稲耕作を受け入れ、竹田さんによれば水田の利水と灌漑を基盤として社会の組織化を図ってきた社会であるという。だがラオスで最も頻繁に催される儀礼であるバーシーの中心には木綿とバナナがあり4、タイ・ルーも例外ではない。彼らは水稲耕作を中心とした高度に組織化された社会・経済を築きながらも、儀礼においては、言霊への信仰とともに物質的には木綿とバナナをその中心に据えている。ここに、彼らがモノの有限性を積極的に認める姿勢がうかがわれる。少なくともバーシーが体現する価値は、必ずしもモノに価値の保存や増殖する資本としての機能を求めないという態度ではないだろうか。

  水稲耕作や焼畑を主な生業とする人々のあいだで、木綿とバナナという2つの作物がどのような役割を果たしているのか、両者はどのような関係にあるのか、どのような意味をもつのか、そしてラオスのとくに北部の歴史的にどのように位置づけられるのか、今後少しずつ調べていきたい。

 

  【追記】 本スタディ・ツアーのために心をくだいてくださったすべての方々のお陰でとても貴重かつ有意義な経験をすることができたことを本当に感謝しています。とくに、岩田先生と竹田先生の深い知識から多くを学び、そしてすべてのメンバーの優しさのおかげで無事に旅を終えることができました。本当にありがとうございました。
 
 

1出典:2003年度版は、http://www.jdf.or.jp/article/index.php?Mode=article&id=560、 2004年度版は、http://www.jdf.or.jp/article/index.php?Mode=article&id=907。
2Connors[1996]によれば、ラオスではもともと腰織機が使われていた。現在では高織機が導入されて広幅の布を織ることが可能になったが、女性の民族衣装シンに関しては、3つに別れた各部分に彼らの身体観が反映された強い意味が付与されており、腰織機で織られたのと同様の幅の布を組み合わせて衣装が作られている[Connors, Mary. 1996. Lao Textiles and Traditions, Kuala Lumpur; New York: Oxford University Press]。
3ベビースリングは、おんぶ紐と比べて、親子が視線を合わせて密着できること、首のすわっていない乳児を抱いたまま両手を使えること、肩だけでなく背中全体に加重を分散することで親の負担が軽減できることの利点が注目されている。日本のベビー・スリングには、両端を輪にして縫ってあるものと、2本の輪の部品が利用されていて長さの調整ができるものがある。布の大きさは、幅は50〜100cm、長さは150〜220cmである。
4ラオス・フィールド・ステーションの駐在員である増原善之氏は、バーシーを、ラオスでは人生儀礼、親族・知人の歓送迎、病気治癒時など多くの機会に血縁・地縁者が集まって幸福と繁栄を祈願する儀礼で、そこで利用される綿糸は本来、儀礼の前に寺院で僧侶の呪法を受けて聖性を付与されたものであると述べている。また儀礼のさいにはバナナの葉の塔の周囲に菓子、ゆで卵、バナナとともにモチ米とモチ米蒸留酒がおかれるという[増原善之 2003「文化」ラオス文化研究所編『ラオス概説』めこん]。

 
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