国際シンポジウム“Re-Contextualizing Self/Other Issues: Toward a Humanics in Africa”(「自己/他者の問題を再文脈化する−アフリカにおける人間学に
向けて−」)に関する報告
 
佐川 徹
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
本シンポジウムは、2007年10月2日と3日の2日間にわたって、ウガンダ共和国の首都カンパラに位置するマケレレ大学のセネート会議場で開催された。マケレレ大学社会学部、京都大学アフリカ地域研究資料センター、日本学術振興会が共催し、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所が協賛した。また、実施にあたっては京都大学ナイロビ・フィールド・ステーションを活用した(以下敬称略)。

目的

本シンポジウム開催の目的はふたつあった。第1の目的は日本とウガンダの学的交流を促進することである。日本人によるウガンダ研究のパイオニアのひとりは、本シンポジウムにも参加した長島信弘(中部大学)であった。かれは、1968年からマケレレ大学の共同研究員としてカタクウィ県(当時のテソ県)において社会人類学的な調査をおこなった。ところが1970年代のイディ=アミン政権期、および政権交代が続いた1980年代の混乱期は、研究調査のほとんどなされない空白期がつづいた。1986年にムセヴェニ政権が発足し、1990年代に入って政治情勢が安定してからは、ウガンダをフィールドとする日本人研究者が徐々に増加してきた。1994年7月にはマケレレ大学と一橋大学のあいだに大学間学術交流協定が締結され、また、2000年10月にはマケレレ大学社会科学部と京都大学アフリカ地域研究資料センターのあいだに研究協力協定が結ばれて、相互の協力体制が整備されていった。

しかし、今日まで日本人研究者の研究内容やその成果がウガンダの人びとに十分に伝えられてきたとはいいがたい。とくに、1990年代半ば以降に日本との研究交流が再開してからの十余年のあいだ蓄積した成果を、ウガンダの学徒たちと共有する機会を持つことの必要性は年々増していた。現地調査に基づいてなされる人類学や地域研究を、単なる「知的搾取」に終わらせないためにも、みずからの研究内容と成果を伝え、そこからどのような「還元」が可能なのかを現地の人びとと議論していくことは、今日日本のアフリカ研究者に求められているもっとも重要な課題のひとつである。
キーノートスピーチをおこなう波佐間(JSPS)

本シンポジウムの第2の目的は、アフリカにおける人類学的研究の今日的意義をアフリカで議論することであった。1980年代以降、「他文化理解の学問」として自己定義してきた人類学に対して、さまざまな批判が投げかけられるようになった。批判の要点はふたつにまとめられる。ひとつは他文化理解における認識論的問題、もうひとつは調査、研究に付随する政治性の問題である。この批判は、それまでの人類学的実践において疑問視されることのなかった、「自己/他者」の関係に再考を迫るものであった。前者は「他者理解」とはいかにして可能か、という問いを現象学的視点や言説分析の手法を用いて提起したものであり、後者は調査、分析、記述をする自己とされる他者とのあいだに存在する権力構造を問題化したものだからである。

しかしこれらの議論は、しばしば欧米や日本の人類学界内部の自足的な議論にとどまり、「調査対象」とされてきた地域に暮らす人びとが、そのような人類学批判に対していかなる見解を抱いているのかは十分に議論されてこなかったきらいがある。そのような傾向に対してわれわれは、現在アフリカの知識人や学生が、人類学的研究に対していかなる意義をみいだし、あるいはいかなる批判意識を抱いているのか、またアフリカの人類学徒たちが、どのような問題意識に基づいて人類学的実践をおこない、それは日本人研究者の問題意識や実践とどのように異なっているのか、もし両者のあいだに大きな隔たりがあるとすれば、その隔たりを乗り越えて新たな人類学的実践、あるいは人間学(Humanics)をともに営んでいくことは可能なのか、といったことをアフリカで議論することが重要だと考えた。そのための端緒として、このシンポジウムは組織された。
(Introductory NoteKeynoteも参照)


シンポジウム参加者たち

会場前にはりつけられたバナー