研究会報告: 21世紀COEプログラム研究会
共催組織: 
「京都大学21世紀COEプログラム:世界を先導する総合的地域研究拠点の形成(ASAFAS・CSEAS)」
「聖者信仰・スーフィズム・タリーカをめぐる研究会」
「東アラブおよびトルコにおけるスーフィズム・聖者信仰複合の学際的研究」

日時: 2003年3月8日(土)
会場: 京都大学文学部東館3階第10演習室

発表1:
「ムスリム『聖者信仰』再考−モロッコ南西部、ベルベル系部族と「聖者」の関係の諸相を手掛かりとして−」
発表者:斎藤剛(東京都立大学大学院)

報告:新井一寛(京都大学大学院)

  イスラーム聖者に関する意欲的な研究会が、上記3つの研究プロジェクトの合同で、30人近い聴衆を集めて開催された。発表者の斎藤氏は、モロッコ南部のベルベル系部族インドゥッザルを主たる対象として、4年間という長期のフィールド調査に従事してきた。フィールドから多くの情報を持ち帰った斎藤氏が、今回の発表で特に問題意識をもって取り組んだのが「聖者信仰」の再考である。

  「聖者信仰」については、社会学やイスラーム研究を含めたさまざまなアプローチが試みられてきたが、斎藤氏は、「聖者信仰」現象を広い社会的コンテクストの中に位置付けて考察した。人々の生活世界における関係性によって規定される新たな「聖者」像構築の試みである。

  まず、調査村に関係する「聖者」の事例が紹介された。

1)来歴不明のスィディ・ブー・バクル。この種の「聖者」廟は、どこの村にも見られる。
2)ムハンマド・ウ・アリー・アウザール。17、8世紀の人物で、タムグルートへの留学後、故郷で教師や著作家、説教師として活躍した。
3)外来の人物で、著名な学者であるスィディ・ムハンマド・ベン・アトマーン。
4)スース全体に知れ渡っている、スーフィー兼学者であるスィディ・ムハンマド・ベン・ヤアコーブ。
5)19世紀のスースを代表する知識人であるスィディ・ル・ハッジ・ハマード・ジャシュティーミー。

  以上、従来の基準からも「聖者」として認識できる人物を挙げた後で、調査村に関係する「宗教的人格」が紹介された。その特徴としては、知識人性、異人性、部外者性、さらに移動性を斎藤氏は指摘する。

1)マドラサのフキー(マドラサの長)、トルバ(教師)。
2)マスジドにおけるフキー、ターレブ(学生)。
3)フキーの代役的な存在。礼拝の先導、日常生活における助言をおこなう。
4)土着化したフキー。
5)村の一般住民とは異質な生活行動と価値観を体現しているイホワーニー。

  「宗教的人格」を「聖者」の上位概念とするアプローチが、どのように展開していくのか、斎藤氏の今後の論文に注目していきたい。

発表2:
「『参詣の書』から見たタサウウフ─周縁からの問題提起─」
発表者:大稔哲也(九州大学)

報告:今松泰(神戸大学大学院)

  今回の発表は、これまでに、『参詣の書』と称される著作群の分析を通じて、エジプト社会の参詣現象にかかわるさまざまな諸相を明らかにしてきた大稔氏が、参詣書に反映するタサウウフの問題に主眼を据えておこなったものである。

  大稔氏は、まず史料として使用した参詣書の解題と、それらが書かれた時代にスーフィーがどのようなものと考えられていたか(すなわち記述されているか)を述べたあと、『参詣の書』とスーフィーの関係をデータから考察した。この際の注目点は以下の通りである。

(1) タサウウフ関連の記述
(2) スーフィーと被葬者
(3) ズフド関連、ワリーの語、ハーンカー、リバートなどの施設
(4) タサウウフの系譜、文献引用など。

  とくに(1)では、考察をすすめる上での問題点、すなわちどのような記述をもってスーフィーとするかを詳しく検討した。

  ついでデータから導き出された問題点の検討が六つの点からなされた。

(1) 『参詣の書』におけるマウリドに関する記述の欠如
(2) 『参詣の書』が宗教施設の拡充を反映していること
(3) タサウウフが時代と共に徐々に本流化したことも反映しているのではないかという指摘。これに関しては、民衆がタリーカに吸収されることで、参詣とタサウウフが関係づけられるようになったのではないかとの推察もおこなわれた。
(4) は、参詣書にみえる記述をふまえた上で、逆に、当時のスーフィズムを浮かび上がらせることができるのかという問題
(5) 参詣書には教団組織名がほとんどでてこないが、これは組織の未発達を反映しているのかという問題
(6) 用語の再検討。

  スーフィズム、タリーカ、聖者信仰の問題を考える場合、聖者信仰の現象面における発露である参詣は重要な位置を占める。今回の発表は、東長氏の提唱する「スーフィズム三極構造論」における参詣の位置づけをも十分に考慮したうえで、さまざまな事例(記述されたという事実を含めて)の積み重ねによって、文献からタサウウフと参詣の接点を考察したものであり、たいへんに興味深く、また有意義なものであった。

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