フィールドからのたより

<< 「フィールドからのたより」一覧へ  
ロニャガトロロの木陰
佐川徹(アフリカ地域研究専攻)
写真1 ニエキーキ村の風景
オモ川の氾濫がこの地に緑をもたらす。

  ぼくがくらしていた村はニエキーキ村という。エチオピアの田舎町から30キロほど南へくだったところにある。この村を「発見」したときの喜びは忘れられない。調査村を求めて夜明け前に町を発ったものの、1日目はどこまで歩いても乾いた荒野、汗と砂埃ばかりが目にはいる。2日目は河辺林にはいり涼しくなったが、今度は朝方の豪雨のせいで足元がおぼつかない。かついだ荷物も重くなる。3時間ぐらい泥道を歩いたころ、突然視界がおおきく開けた。砂埃のかわりに目に飛び込んできたのは、どこまでも続く一面の緑に点描のような彩りを添えてすすむ、数えきれぬウシやヒツジの姿だった。ニエキーキ村はそこにあった。

  この村にはダサネッチという人びとがくらしている。ぼくはかれらの日常生活の一端を明らかにするためにそこで調査をした。だがこの文章では、かつてニエキーキ村にくらしていた別の民族の青年にまつわる話をする。ぼくはかれの名を村の木陰で知った。

 

  ダサネッチの一日はコーヒーとともにはじまる。いちばんに起きてこれを沸かすのは妻の役目だ。これから抱えるほかのたくさんの仕事をこなすためにも、女たちは濃いコーヒーですっきりと目を覚まさなければいけない。母親から手渡された熱いコーヒーを熱いまま飲んで家から出て行くのは少年や青年。家畜の草地と水場を求めて一日中炎天下を歩くきつい務めが待っている。

  汗を流して仕事に励むこれらの人びとと対照的なのは年長の男たちだ。かれらはコーヒーをゆっくり冷ましてから飲み終えると、村はずれにある木陰へと向かい、陽が落ちるまでの時間をここですごす。高さ15センチほどの携帯いすを背もたれにして友人との会話を楽しみ、話し疲れるといすを枕がわりに目を閉じる。たっぷり休みをとると今度はナイフを取り出して杖やいすの手入れをし、腰にまいた毛布のほつれを針で縫い合わせる。木陰に一歩足を踏み入れば、ぎらぎらの太陽に照りつけられた外とは別世界、適度に涼やかな風が汗をかわかし、素足から伝わる地面のひんやり感が心地よい。このような木陰は各村にかならずひとつはあり、成人男性であればだれでもそこへ出向いて会話に参加できる。いわばここは仕事のない男たちの集いの場である。ぼくも午前の調査に疲れると木陰へ向かい、夕方までなにもせずにすごす。

写真2 ニエキーキ村の畑
モロコシの収穫を終えたばかりの畑に牛を放牧している。
写真3 ロニャガトロロの木陰
一年でもっとも多忙な収穫期には人影が途絶えた。

  ニエキーキ村の木陰はぼくがこれまで見たなかでもっとも立派なものだ。木陰をつくる木の胸高直径は約2メートル、高さも15メートルほどある。木の周囲には大人の背丈を優に越えるまでに育ったモロコシの茎が、木陰を守る壁のようにそびえている。このあたりはもともと、村のすぐそばを流れるオモ川の河辺林であったのだが、この一本の巨木を残して切り開かれ畑となった。川が氾濫する季節が近づくと、村人は木陰の周囲に家ごと移動してくる。やや小高くなったこのあたりにまでは洪水も及ばない。人びとは木に寄り添い水が引くのを待つ。

  村人はこの木陰をロニャガトロロと呼んでいる。ふつう木陰は木の種類を示すことばで呼ばれる。たとえばミエデ (Cordia gharaf) の木がつくる木陰に出向くときには「ミエデに行く」という。しかしロニャガトロロは例外だ。甘さと渋みが入り混じった、乾くと薄茶色になる実を落とすこの木の名前はキナッチ(Ficus sycomorus:イチジク)である。村人によればかつてはこの木陰もキナッチと呼ばれていたという。だが10年ほど前に名前を変えた。べつにだれかが変えろと主張したわけではない。あるできごとを契機に自然とそう呼ばれるようになったのだ。ロニャガトロロとは、ニエキーキ村にくらしていたトゥルカナの青年の名である。

 

  トゥルカナはケニアとの国境をはさんでダサネッチに隣接する牧畜民である。両者はもともと友好的な関係にあったとされるが、20世紀はじめに関係が悪化してから今日にいたるまで、断続的に戦いを繰り返してきた。最近では2000年にダサネッチが「邪術にかかった戦い」と呼ぶ紛争があり、百人以上が死傷したといわれる。しかし戦いはいつまでもつづくわけではない。双方の年長者と政府関係者が集まって会合を開き、その場で家畜を殺してともに肉を食べることで和平がもたらされる。すると人びとは国境を越えてたがいの土地を往来しあう。ダサネッチにとってトゥルカナはよき交易相手で、みずから生産したタバコやモロコシをトゥルカナのヤギやヒツジと交換する。

写真4 木陰で髪を整えてもらう青年
  ロニャガトロロが父親とともにニエキーキ村へやってきたのも、そのような平和な時期であったという。ふたりが移住してきた理由は知られていない。この地にくらしはじめてまもなく、父親は病気で死んでしまう。ロニャガトロロはまだ5、6歳であった。この地に親戚などいるはずもない少年は、近所に住むダサネッチに引き取られ、「ダサネッチとして」育てられることになった。成長した少年はほかのダサネッチと同じように成人儀礼をおこない、ダサネッチの女性と結婚した。モロコシをつくるための畑も分配され、家畜も手に入れた。すべてが順調だった。

  だが不幸は突然襲ってきた。ある日、町から買ってきた酒で悪酔いしたブイテという男がかれの家を訪ね、食事を出すように求めた。ロニャガトロロが「モロコシはない」と答えると、ブイテはそれなら今すぐに穀物庫をあけろという。かれは酔っ払いの相手などする気はないと無視を決め込んだ。これにひどく怒ったブイテは近くの家から銃をもちだした。もともと酒癖が悪く乱暴な男として知られていた。ロニャガトロロはブイテを避けて家を出た。それで相手が静まると思ったのだろう。だがかれはあとを追ってきたブイテに撃たれて死んだ。キナッチの木の根元だった。ほんの10年ほど前のことであるという。つまり、木陰により正確な名前を付ければ「ロニャガトロロが命を絶った木陰」ということになる。

  ダサネッチがダサネッチを殺すことはもっとも忌むべきことである。そのような殺人者をニョギッチというが、人びとはこのことばを口に出すことも嫌う。穢れたニョギッチの存在は社会に混乱をもたらすため、殺人者はすぐに浄化されなければならない。かれは家にある土器やミルク入れなど、いっさいの家財道具を地面にたたきつけて割る。つぎに他人の犬とロバを捕えて殺す。そして村から隔離された藪のなかで2週間ほど過ごす。最後に親しいものからヤギの血を体に塗ってもらい、もとの居住地へ戻る。なんだ、それだけかと思うかもしれない。ニョギッチにはわれわれが考えるような「刑罰」が科せられるわけではない。しかしその後の人生で、かれが人びとから真の信頼を得ることはない。

  一方、ダサネッチがトゥルカナなどの「敵」を殺した場合には、何者をも恐れぬ勇敢な男として称えられる。かれにはその勇敢さの証として胸一面に1。5センチほどの傷がナイフで刻まれる。このチェデと呼ばれる傷を身体に刻印された男の発言は、社会におおきな影響力をもつ。

  事件のあと、ブイテの処分を決めるための会合が開かれた。その結果、ブイテは勇敢な男となった。死者は「ダサネッチの土地に住んでいたトゥルカナ」であったことが会合で「決定」されたのだ。どのような経緯でその「決定」がなされたのか、その場にいなかったぼくに細かな中身はわからない。たしかなのはブイテの胸に「敵」を殺した名誉の勲章が刻まれたことだ。現在かれはロクワレモイと呼ばれている。これは「トゥルカナを殺した人」に与えられる尊称である。

 

  ぼくはよく「ダサネッチになるにはどうすればいいのか」とかれらにたずねてみた。「日本人」として同じ質問をされた自分を想定してみると、これは愚問である。ぼくには、「たぶん役人の書類審査があると思います」ぐらいのことしかいえない。だがこの地に住む人びとはそろって「われわれの土地に住み、われわれの女性と結婚し、われわれの儀礼をすることだ」と答える。必要なのは生まれた場所ではなく生活をともにすることだ、とかれらはいう。たとえ「敵」に分類される民族の出身者でも「ダサネッチになる」ことはできる。実際、現在「ダサネッチ」として生きる人びとに出自をたずねると、近隣にくらす民族から移住してきた人の子孫はおおい。これはこの地域の先行研究でも指摘されてきたことだ。もっとも、移住してきた第一世代は「本当のダサネッチ」ではない。だがその子供は「本当のダサネッチ」だ。

  そうであるならば、ロニャガトロロはすでに「本当のダサネッチ」であったはずではないのか。こう村人にたずねると「トゥルカナはトゥルカナなんだ」、そんな答えしか返ってこなかった。ぼくはこの答えに割り切れないものを感じ、何度も同じ問いを繰り返したことを覚えている。そして、会ったこともないロニャガトロロが「ダサネッチになれなかった」ことが、とても不条理に思えた。

  その理由はふたつあったと思う。ひとつは単純なことで、ぼくはブイテが苦手だった。かれのことは以前から知っていた。村にくらしはじめてすぐのころ、オモ川で水浴しているとちょっかいをだしてくる男がいる。おまえを川に沈めることができる、笑いながらそんなことをいわれた。それがブイテだった。べつにぼくは気にかけなかったが、その場にいた友人たちは憤慨していた。冗談であってもわれわれとともにくらしている男にそんなことをいうのはけしからん、ということらしい。以来かれとは相性が悪い。そのうえいまでも酒を飲むと暴れる。ブイテは勇敢かもしれないが、尊敬するには値しない。だからぼくはロニャガトロロの立場にたって話を聞いていたのだ。

  もうひとつの理由はぼくの素朴な思い込みと関係している。生活をともにすることで「ダサネッチ」になれるというかれらのことばは、ぼくにはとても魅力的に響いた。それは「役人の書類審査」でのみ帰属先を決められてしまう「日本人」とは対極にあるように思えた。だがロニャガトロロの話はそんな魅力的なことばと矛盾しているように感じた。

  その矛盾は自分自身の経験とも重なりあってみえた。たとえば、ぼくがくらす集落を通りかかった人はよく「ディキの息子がこんなところでなにをしているのだ」と口にした。ディキとはかつてこの地にくらしたキリスト教の宣教師の名前であるが、その名はダサネッチとは異質な世界を生きる「白人」一般を指すときにも用いられる。この問いに村人はこう答える。「いやこいつはディキではない。われわれのやり方を学んでいるわれわれの男だ。ことばもできるし、車は使わない。ここまで歩いてきた足をもった男だ。家畜を殺して息子の世代組にも入った。あとは結婚するだけだ」。そんなことを耳にするとぼくはただうれしくなってしまい、その場から離れる。。

  しかしその同じ村人が、ぼくにカネをせびるときには決まり文句のようにいう。「白人の体はカネでできてるんだろう」。べつに悪気があるわけではない。単にこれまでの「白人」に対する経験にもとづいていっているだけだ。そうわかっているから腹がたつ。そのたびに、自分の体はカネでできていないことをいちいち説明する。

  ぼくはそんなことに一喜一憂していた。だから「ダサネッチになった」はずの青年の話がただの他人事には思えなかった。もちろん「トゥルカナ」と「白人」はちがうし、ぼくが村でくらしたのはわずか半年だ。それでも、ロニャガトロロが「トゥルカナ」にされたことは、自分が「白人」で片付けられたことと同じように納得がいかなかった。

 

  フィールドにいるあいだはなにか過剰な思い入れがあり、矛盾は矛盾としてとどまりつづけた。フィールドを離れてから考えてみると、ぼくが感じた「不条理さ」は上に書いたような理由で説明できるのだと思う。そしてそのような思い入れからすこし離れて、この話をもう一度考えなおしてみた。

   「トゥルカナ」として死んだロニャガトロロは、人びとの記憶から失われていく運命にあったはずだ。かれの名を語り継ぐ動機をもった人はいない。せいぜいブイテが酒の席での自慢話にするぐらいだ。その名がたまたまニエキーキ村の木陰に残ることがなければ、ぼくにかれの話を知る機会はおとずれなかったであろう。一方、ぼくが「ダサネッチになる」方法をたずねた相手は、いずれもすでに「ダサネッチになった」人びとであった。かれらは自分の祖先が「ダサネッチになった」経緯を語り継いできたはずだ。ぼくはかれらのことばに、先行研究で指摘されていた帰属意識の「柔軟さ」を見出して安心し、それと矛盾したロニャガトロロの話には戸惑いを覚えた。

  だがロニャガトロロの存在を知ったぼくはむしろ、かれと同じように「ダサネッチになれなかった」人びと、そしてかれとちがって名を残すことがないままこの地を去り、あるいはこの地で死んでいった人びとの存在に思いをはせるべきだったのかもしれない。「なれなかった」理由はさまざまだろう。酔っ払いに殺された、子供がいなかった、畑や家畜を手に入れられなかった…。ぼくは「なった」人びとのことばと「なれなかった」人びとの理由をともに考えることで、帰属にまつわるかれらの力学をより深く知ることができたのかもしれない。すくなくともそこには「不条理さ」だけで片付けることのできない、「役人の書類審査」ともその対極にある「柔軟さ」とも異なる論理があるのだと思う。それはいまのところ、新たな思い入れでしかないが。

 

  昼過ぎになると木陰で寝てばかりいたぼくは、村人から「ロニャガトロロの男」と呼ばれるようになった。もっとも、村の内外から人びとが集う木陰で無為にすごした時間は必ずしもムダではなかった。調査のためにほかの村を訪問したときに、ぼくは見知らぬ男たちからよく声をかけられた。「おまえのこと知ってるよ、このまえロニャガトロロで寝てたよな」。このひとことで緊張が解けて話がはじまる。自分の存在がとりあえず相手に知られていることは、調査を進めていくうえでとても大切なことだ。その点においてぼくは運がよかった。たまたま「発見」したうつくしいニエキーキ村の木陰に体を横たえているだけで、「ダサネッチのやり方を学ぶ男/白人」の存在をおおくの人びとに知ってもらうことができたからだ。

  ロニャガトロロは、ぼくにすこしのことを考えるきっかけを与えてくれた人であり、たくさんの人と出会うきっかけを与えてくれた木陰である。

『アジア・アフリカ地域研究』第5-2号掲載: 2006年3月発行

 
21世紀COEプログラム「世界を先導する総合的地域研究拠点の形成」 HOME