報告
 
  21世紀COEプログラム ラオス・スタディ・ツアー報告

「ラオス北部と雲南の比較」

安達真平(東南アジア地域研究専攻)
 
出張期間: 2005年11月26日〜12月1日
参加したワークショップとスタディ・ツアー: Coexistence with Nature in a ‘Glocalizing’World
-Field Science Perspectives-および
北部ラオス・スタディ・ツアー
ワークショップの開催場所と主催したフィールド・ステーション:

ラオス人民民主共和国、ラオス・フィールド・ステーション

報告者の研究対象地域(関連フィールド・ステーション): 中国雲南省(ミャンマー・フィールド・ステーション)

 

報告
    今回、COEのスタディ・ツアーに参加して、長い間行ってみたいと思いながら行くことができなかったラオス北部を訪れることができた。ツアーの目的は、さまざまな地域でフィールド調査をしてきた学生が、異なる地域を訪れ、自分の研究する地域との比較をしてみようというものであった。私は、これまで中国雲南省のベトナム国境に近い哀牢山地(特に元陽県が中心)でフィールド調査を行ってきた。ラオスと私の調査地は、地理的にも比較的近く、同じように他民族が住む山地であり、自然環境、食べ物、集落や人々の雰囲気など、私の調査地と似た部分が多くあった。しかし、同時に両地域の違いを感じたことも多く、今回のスタディ・ツアーは、自分の研究地域が東南アジア大陸部山地の中でどのような位置にあるのかということを考える上でとても有意義なものであった。
  短期間の滞在であったため、体系だった聞き取りや観察ができずに、理解が不十分なところが多いが、以下にスタディ・ツアーで考えたことを、ラオス北部と雲南との比較、特に私の調査地である哀牢山地との比較という視点で書いてみたい。
 


ナーヤンタイ村
(住民の大部分はタイ・ルー)で
ご馳走になった食事。
野草を多用し、煮物が中心で、
浸けだれ(写真のお盆中央の
小皿)の食事は、雲南省哀牢
山地と共通する。
漢族の炒め物が中心の食事
とは対照的である。
  ラオスや雲南省を含む東南アジア大陸部の山地は、一般に、盆地や谷底低地の水田耕作地帯と山地斜面の焼畑地帯の対照的な2つの生業空間が見られるといわれている。さらに、そこに住む民族は、盆地や谷底低地はタイ系民族が主であり、一方山地斜面はモン・クメール語系、チベット・ビルマ語系、モン・ヤオ語系の多様な民族が暮らしている。さらにラオスでは、低標高の山地斜面に住み、先住民といわれるモン・クメール系の人達をラーオ・トゥン、彼らより高い斜面に住み、比較的新しく移住してきたチベット・ビルマ語系あるいはモン・ヤオ語系の人達をラーオ・スーンと呼んで区別しているようである。そして、ラーオ・ルムと呼ばれるタイ系民族が、政治的、経済的、文化的に山地斜面の民族、特にラーオ・トゥンに対して支配的な地位を占めていた。雲南省でも、広い盆地を基盤に多くのタイ系民族が暮らす西双版納を中心にした地域は、ラオス北部とよく似た民族構成、土地利用みられた。
  こうした東南アジア関係の本などで親しんできた“典型的な東南アジア大陸部の山地世界”と、私の調査地である哀牢山地を比べると、随分と違うところが多い。まず、水田耕作と焼畑という2つの対照からして違う。哀牢山地は、比較的標高の高い山地斜面(約700mから1800mで古くから棚田が開かれてきた。狭い谷底低地に住むタイ系民族(ここでは、中国でダイ【人偏に泰】族、チワン【壮】族と呼ばれる人達を指す)に比べ、山地斜面で棚田を開く、ハニ【哈尼】族、イ【彝】族(チベット・ビルマ語系民族)、漢族等の人達の方が人口もはるかに多く、昔から主要な定期市は山上の見晴らしのいい尾根上で開かれてきた。主要な道路もそうした市場町を結ぶように尾根を巻きながら山の中腹を走る。谷底低地にも定期市は立つが、数は少なく、規模も小さい。政治的にも、最も大きな権力を持っていたのは山の上のハニやイの地方勢力だった。明代以降は、中国王朝から称号を受け、いわゆる土司として地域を統治し続けた。一方、谷底低地には、多くのタイ系民族の小さな土司が、それぞれほんの数村単位で支配領域を持っていた。つまり、山上と低地では政治勢力が分かれていた。ただし例外もあり、金平県西部のように比較的広い谷底低地のある地域では、タイ系民族の土司が山上の他民族を支配下に置いていたし、元陽県南部のように、山に囲まれた小さな谷底低地に住むタイ系民族は、山の上に住むハニ族の土司の支配下にあった。ただし、これはある特定の民族が特定の領域で支配的であったというわけではなく、例えば、先ほど述べた元陽県南部のハニ族土司の場合、中華人民共和国成立直前には土司の領地は6つに分けられており、それぞれ6人の里長が治めていたが、里長の民族はハニ族が3人、イ族が2人、漢族が1人と様々な民族から構成されていた[民族問題五種叢書雲南省編集委員会1982 哈尼族社会歴史調査 雲南民族出版社]。また、面白いことに、哀牢山地の人達は土司がどの民族の出身なのかはほとんど知らない。現在の中国では各人の民族がはっきり身分証明書に記載されているが、かつては(多くの場合今でも)ハニ族とイ族、イ族と漢族の間にはっきりと線引きをすることができないことは現地調査中に何度も感じた。しかし、谷底のタイ系民族と山上の民族との間は、交流も少なく、比較的はっきりとした境界があったように思える。言葉にもそれが表れており、山上の民族間ではハニ語が共通語の機能を果たしてきたのに対して(今は漢語がそれに替わりつつあるが)、タイ系民族でハニ語を話すものはほとんどいない。それに比べると、ラオスでは低地の民族と山上の民族との関わりはやや密接な感じを受ける。哀牢山地では、主に漢族がその役目を担っていた、低地民と山地民との間の交易を、ラオスでは低地のタイ系の民族が担っていたことも要因であろう[Izikowitz, K. G. 1979 Lamet: Hill peasants in French Indochina AMS Press]。今回訪れたルアンパバーン県ナムバーク郡ナーヤンタイ村(タイ・ルーの村)において、その村で現地調査を行っている私たちの研究科(ASAFAS)の院生、吉田さんからも、市場などで山上の民族から様々な山の幸を買うという話を聞いた。また、タイ・ルーの人達は子ブタを山の上のラーオ・トゥンから買って来て育てるのだという。自分たちで子ブタを生ませることは無い。これは、哀牢山地での、山上の民族間でみられる関係と似ている。すなわち、田畑は少ないが森や草地が多く、餌にする野草の多い山の上の村(多くはハニ族の村)では、子ブタを産ませ、ある程度大きくなるまで育てる。それを標高が少し低く田畑の多い村の人(ハニ族またはイ族)が買う。低い村で豊富にあるトウモロコシを餌にしてやるとブタは早く肥る。十分に肥らせてから市場に持っていって売る。ただし、こうした関係にも変化が見られるようになってきた。それは、最近では色が黒く、鼻が短い在来種のブタに替わって、配合飼料でより早く生育する新品種(色が白く鼻が長い)のブタが普及し始めているからである。新品種の子ブタは、定期市で、建水(雲貴高原にある漢族の町)から来た漢族から買う。ラオス北部と哀牢山地とのこうした差異を生む大きな要因の一つは、山地斜面での主要な土地利用が、ラオスでは焼畑と哀牢山地では棚田(実は常畑も多い)という違いによるものであろう。

  棚田(ここでは、谷底低地に接する斜面や狭い谷地に開いた田は含めない)は、雲南省では紅河南岸の横断山脈に多く見られ、そこから南に離れるにしたがって徐々に少なくなる(ただし、局地的に棚田が見られるところはある)。なぜ哀牢山地では棚田が昔から開かれ、それより南の山地では棚田がほとんど見られないのか。今回のラオスに行った際にも感じたのだが、南の山地では、水は山の斜面のかなり下でしか湧き出ない。ルアンパバーン県ビエンカム郡サムトン村に向かうバスで、尾根を縫いながら走っている道の脇には枯れた溝があるだけであった。雨季には水が流れるのだろう。哀牢山地では、最も村落の集中する1600mから1800mの標高帯を歩くと、乾季でも至る所に水の流れているのを見ることができる。東南アジアの山地では、人口増加や焼畑からの転換を進める政府の政策のため、水田の開発が進んでいると聞く。今回訪れたルアンパバーンのJICAプロジェクトでも、水田の開墾が支援項目に幾つか入っていた。しかし、水田を開けるのはせいぜい斜面の下部の谷地のみであって、哀牢山地のように豊富な沢の水を長い水路で引いてきて、斜面全体に棚田を展開することは不可能である。山の上に水が湧き出るかどうかというのは、地形や気象条件よりも地質条件の違いが大きく関係していると考えられる。地質条件が山地の農業を決定することを主張したのは小出博[1973 『日本の国土』 東京大学出版会]であるが、少なくとも古くから開かれてきた大規模な棚田地域については(おそらく常畑地域についても)、それは正しいのではないかと思う。
  東南アジア大陸部山地をその周辺も含めて見ると、多民族が暮らす山地という共通点を持ちながらも、山地の土地利用には地域性があり、また民族と生業との関係も様々である。特に西南中国を含めてみた場合、Tapp, N.が指摘しているように、ラオスやタイでは焼畑民として知られているモン(ミヤオ族)やミエン(ヤオ族)はかなり昔から水田や常畑を開いて定住生活をしていた。広東省北西部のヤオ族は12世紀から棚田を開いているという[2000 “Miao cultural diversity and care of the environment” in Xu Jianchu (ed.) Proceedings of the Cultures and Biodiversity Congress 2002 July, Yunnan, P.R.China.]。哀牢山地の棚田も、漢籍などの記載から考えて、少なくとも700年前には、ハニ族によって開かれていたようである。東南アジア大陸部山地を考える際に、中国だけでなく、ヒマラヤなど他の周辺地域を含めて考えると、より多角的な理解ができるだろう。

 

 

サムトン村(住民はカム)の
焼畑の出作り小屋。
道路沿いの村が水を得に
くいこともあって、村人は
1年の半分以上をここで暮らす。
  話は戻るが、山の上で水が得にくいということは、今回訪れたサムトン村というカム(ラーオ・トゥンに分類される民族)の村でも問題となっていた。この村は、1977年に尾根上を走る道路が開通した後に、近くのカムの人達が道路沿いに移住してできた。JICAのFORCOMプロジェクトでその村を担当しておられる渡辺さんに聞いた話では、尾根上にある村の近くにも飲料水を汲む泉はあるが、乾季にはペットボトル一本の水を汲むのに何分もかかるため、村人は長い行列を作るという。村から斜面を20分ほど下ったところに焼畑の出小屋があり、そこでは比較的水が豊富にある。そのこともあって、村人は年の半分かそれ以上、斜面下の出作り小屋で暮らしている。ただし、子供は道路沿いにある学校に通うために、村に残る。渡辺さんも、この村の最も大きな問題は生活用水の確保だという。JICAの支援で、この村に貯水タンクを作り、尾根の上部から生活用水を引いてくる計画をたてたところ、上流に村を構えるモンの人達の反対にあって中止せざるを得なくなった。渡辺さんは、モンの人達はその水でバイクを洗ったりするのに使っているだけだけれど、反対されたらどうしようもない、と言っていた。
  実は、水の豊富な哀牢山地でも、こうした水資源を巡る問題が各地で起こっている。農村の生活用水の不足が問題になることはほとんど無いが、棚田へ引く灌漑用水をめぐる争いは昔から多かった。近年は県や郷、鎮政府の所在地の町で商売をする人達が増え、生活用水の需要が高まっているが、そうした町は、見晴らしのいい尾根上に開かれる定期市が徐々に発展して町となった場合が多く、もともと水を得にくい場所にある。そのため、地元政府が町に引く新たな水道の水源を確保するために、上流農村の灌漑用水の一部が転用されるなどしてトラブルが各地で発生している。また、ASAFAS院生のNathanさんが調査を行っているかつて焼畑が広く行われていたタイ北部のある山地では、灌漑を必要とする換金作物の導入によって水資源の管理が問題になりつつある。人口増加や換金作物の導入、農業の集約化といった変化を受けて、どのように水資源を利用、管理するのかということが、東南アジア大陸部山地の共通の問題となっているといえる。

 

 

 
ルアンパバーンの市場で
雑貨を売る湖南出身者の店。
 
  最後に、中国の影響について述べたい。最近雲南省から中国人商人が大勢ラオスに入って商売をしているという噂はよく耳にしていた。しかし、行ってみると想像以上にラオスの普通の風景の中に多くの中国商人がいることに驚いた。買い物に寄ったルアンパバーンやノーンキアオの雑貨商は皆、湖南省の漢族だった。店の構えも売っている商品も中国の田舎町の雑貨屋とまったく変わらない。ルアンパバーンからナーヤンタイ村へ行く途中のT字路で料理屋を開いている湖南省出身の人達は、私たちが入ってゆくとすぐに「食事か?」とマージャンをする手を休めることなく中国語で聞き、私たちが客でないことがわかるとまたマージャンに熱中していた。店の奥には、おそらく近くの村で契約栽培をしているのだろう、中国に輸出するためのコンニャクイモの入った袋が山と積まれていて、外見は食堂だが、多目的に利用されている場所のようであった。その他、ルアンパバーンで中華料理屋を開いている家族は雲南省昆明の出身で、一番の売り物は千張肉(ブタの三枚肉と高菜の漬物を長時間蒸した雲南の名物料理)だった。ルアンパバーンの街角にダンボールを置いて果物を売るおじさんは重慶の出身で、昆明からルアンパバーンへ船で荷を運ぶ中国人の仲買人から商品を買い道端で売っている。リンゴは陝西省、ナシと干しブドウは新疆ウイグル自治区産のもの。リンゴは1kgが7000から9000キップとおよそ昆明の倍の値段だが、引っ切り無しに客が買っていた。
  都会だけでなく、田舎にも中国商人は多いようだ。ナーヤンタイ村には米や髪の毛を中国人が買いつけに来るという(吉田さんへの聞き取り)。サムトン村のあるビエンカム郡には、10日おきに立つ定期市が約10村に1か所の割合であちこちにあるというが、中国人商人は郡の中心町ビエンカムに拠点を持って、市の立つ日ごとに各市を回り、雑貨、服、家電製品等を売っている。同じようにベトナム人は食器を売っている。農閑期である乾季には、直接バイクで村々を回り商品を売る中国人もいるという(ビエンカム郡普及員の方への聞き取り)。
  こうした中国各地からの商人の流入は、私の調査地を含む雲南省の少数民族地域と非常に良く似ている。哀牢山においても、県の中心町を拠点に、各定期市を巡回する商人のほとんどは四川省や湖南省出身の漢族であり、郷の中心町に雑貨屋を構える者も多い。彼らの売るタバコや飲料、石鹸、洗剤などは、省都の昆明よりも安いものが多く(普通は運賃が加算されて高くなるのだが)、生産から流通まで一貫したネットワークを持っているのではないかと思わせる。また、湖南商人は現地の仲買人を使って、村々から髪の毛を買い付けている。徒歩で村々を回る行商人は、プラスチック製品を売るのが四川省出身者、家電修理が江蘇省出身者、古着や糸を売るのが湖南省出身者、布団綿を売るのが河南省出身者である。最近では、お嫁さん探しに山東省や湖南省の人が来る。ハニ族やイ族の人の多くは漢語をしゃべれない。したがって、こうした行商人は暗くなるとどこかの農家へ行き身振り手振りで一晩泊めてもらえないかと交渉し、食堂などないので、たいていはその家で食事もご馳走になる。こうしたことは、今に始まったことではない。雲南省では、昔から四川や湖南、安徽、広東、広西等の地域から商人や移民が盛んに流入していた。哀牢山地でも、清代末期から民国期にかけて、アヘン貿易(広東商人が主)や鉱山の採掘、ベトナムとの貿易(広東、広西商人が主)などで、多くの他省出身の商人が入っている。当時、定期市や農村を循環して内地(哀牢山地以北の漢族居住地)の商品を売っていたのは、多くは四川省や地元雲南の漢族だったという[民族問題五種叢書雲南省編集委員会1985 『思茅、玉渓、紅河ダイ【人偏に泰】族社会歴史調査』雲南人民出版社、雲南省紅河県誌編纂委員会1991『紅河県誌』雲南人民出版社]。商人だけでなく、改土帰流が行われた元陽県の東部では清代に漢族が哀牢山地に移住して棚田を開いたが、彼らのなかには四川省や湖南省の出身が少なくないらしい。ラオスへの中国人の進出も、国境が再び開かれたことで再び動き出したこうした流れの延長なのであろう。
  中国の影響ということで、今回のラオス・ツアーで印象的だったのは、ゴムの植林である。訪れた2つの村(ナーヤンタイ村とサムトン村)ともに、中国の企業によるゴムの契約栽培が始められようとしていた。この背景には、中国国内において、自動車などの増加により天然ゴムの需要が急増し、2001年にはアメリカを抜いて世界最大の天然ゴム消費、輸入国になったことがある[中国情報局インターネット経済ニュース2005年12月14日]。中国有数の天然ゴム生産地である雲南省から、さらにその生産地をラオスにも拡大しているのである。今回、サムトン村で見学した焼畑は、火入れ後1年目の陸稲が収穫されたばかりだったが、来年は中国の企業と契約してゴムの木を植えることになっているということであった。他にも、村で50世帯が契約を結んだ。苗と技術は中国企業が提供する。ゴム原液は100g当り5000キップで売ることまで決まっているという。6年目にゴムの木1本あたり300g、8年目以降は3から5kg採れると教えられている。ただし、契約栽培ができるのは自動車道路から2km以内の畑のみ。中国が経済交流促進のために、ラオスでの道路建設に投資を拡大しているという。道路網の発達が、確実にラオスの農村に大きな変化を与えることになりそうである。
  また、これはASAFASの院生である山本さんが研究していることだが、雲南省最大の天然ゴム生産地、西双版納州で国営ゴム農場の建設を担ったのは、1960年代に「支援辺境」という国家政策の下で湖南省から大量に移住してきた農民だった。山本さんによると、農場の建設初期だけでもおよそ4万人の湖南省出身者が西双版納州に移住して、ゴムの栽培に従事したという。現在でも西双版納州には、至る所に湖南省出身者のコミュニティーがある。彼らと現在のラオスでのゴム栽培の拡大、湖南商人の進出が、はたして関係があるのかどうか。興味深いところである。また、2004年に西双版納州の関累という町に近いハニ族(アカ)の村を訪れた際、哀牢山地、紅河県の棚田の村からやってきた多くのハニ族が、この村の土地を借りてゴムやパイナップルを栽培しているのを見た。初めは季節労働者として農作業の手伝いに来ていたのが、今は一部が移り住み、土地を借りて自ら栽培しているという。地理的には遠いが(バスを乗り継ぎ3日)言葉が近いアカの人たちを頼って、移り住んだのだ。郷の中心町には、仕事を求めて来た紅河県のハニ族の一群を見かけた。この辺りの斜面に広がるゴムは、ほとんどすべて紅河県のハニが開いたんだと村の人が話してくれた。この勢いだと、棚田の村の人達は、すでにラオスでゴムを植えているものもいるだろう。あまり関係が無いと思っていた私の調査地の人達とラオスの人達がいつの間にかつながっている。中国のラオスへの進出は、そうした人々の草の根の動きという側面も大きいのだろう。

 
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