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ナーヤンタイ村
(住民の大部分はタイ・ルー)で
ご馳走になった食事。
野草を多用し、煮物が中心で、
浸けだれ(写真のお盆中央の
小皿)の食事は、雲南省哀牢
山地と共通する。
漢族の炒め物が中心の食事
とは対照的である。 |
ラオスや雲南省を含む東南アジア大陸部の山地は、一般に、盆地や谷底低地の水田耕作地帯と山地斜面の焼畑地帯の対照的な2つの生業空間が見られるといわれている。さらに、そこに住む民族は、盆地や谷底低地はタイ系民族が主であり、一方山地斜面はモン・クメール語系、チベット・ビルマ語系、モン・ヤオ語系の多様な民族が暮らしている。さらにラオスでは、低標高の山地斜面に住み、先住民といわれるモン・クメール系の人達をラーオ・トゥン、彼らより高い斜面に住み、比較的新しく移住してきたチベット・ビルマ語系あるいはモン・ヤオ語系の人達をラーオ・スーンと呼んで区別しているようである。そして、ラーオ・ルムと呼ばれるタイ系民族が、政治的、経済的、文化的に山地斜面の民族、特にラーオ・トゥンに対して支配的な地位を占めていた。雲南省でも、広い盆地を基盤に多くのタイ系民族が暮らす西双版納を中心にした地域は、ラオス北部とよく似た民族構成、土地利用みられた。
こうした東南アジア関係の本などで親しんできた“典型的な東南アジア大陸部の山地世界”と、私の調査地である哀牢山地を比べると、随分と違うところが多い。まず、水田耕作と焼畑という2つの対照からして違う。哀牢山地は、比較的標高の高い山地斜面(約700mから1800mで古くから棚田が開かれてきた。狭い谷底低地に住むタイ系民族(ここでは、中国でダイ【人偏に泰】族、チワン【壮】族と呼ばれる人達を指す)に比べ、山地斜面で棚田を開く、ハニ【哈尼】族、イ【彝】族(チベット・ビルマ語系民族)、漢族等の人達の方が人口もはるかに多く、昔から主要な定期市は山上の見晴らしのいい尾根上で開かれてきた。主要な道路もそうした市場町を結ぶように尾根を巻きながら山の中腹を走る。谷底低地にも定期市は立つが、数は少なく、規模も小さい。政治的にも、最も大きな権力を持っていたのは山の上のハニやイの地方勢力だった。明代以降は、中国王朝から称号を受け、いわゆる土司として地域を統治し続けた。一方、谷底低地には、多くのタイ系民族の小さな土司が、それぞれほんの数村単位で支配領域を持っていた。つまり、山上と低地では政治勢力が分かれていた。ただし例外もあり、金平県西部のように比較的広い谷底低地のある地域では、タイ系民族の土司が山上の他民族を支配下に置いていたし、元陽県南部のように、山に囲まれた小さな谷底低地に住むタイ系民族は、山の上に住むハニ族の土司の支配下にあった。ただし、これはある特定の民族が特定の領域で支配的であったというわけではなく、例えば、先ほど述べた元陽県南部のハニ族土司の場合、中華人民共和国成立直前には土司の領地は6つに分けられており、それぞれ6人の里長が治めていたが、里長の民族はハニ族が3人、イ族が2人、漢族が1人と様々な民族から構成されていた[民族問題五種叢書雲南省編集委員会1982 哈尼族社会歴史調査 雲南民族出版社]。また、面白いことに、哀牢山地の人達は土司がどの民族の出身なのかはほとんど知らない。現在の中国では各人の民族がはっきり身分証明書に記載されているが、かつては(多くの場合今でも)ハニ族とイ族、イ族と漢族の間にはっきりと線引きをすることができないことは現地調査中に何度も感じた。しかし、谷底のタイ系民族と山上の民族との間は、交流も少なく、比較的はっきりとした境界があったように思える。言葉にもそれが表れており、山上の民族間ではハニ語が共通語の機能を果たしてきたのに対して(今は漢語がそれに替わりつつあるが)、タイ系民族でハニ語を話すものはほとんどいない。それに比べると、ラオスでは低地の民族と山上の民族との関わりはやや密接な感じを受ける。哀牢山地では、主に漢族がその役目を担っていた、低地民と山地民との間の交易を、ラオスでは低地のタイ系の民族が担っていたことも要因であろう[Izikowitz, K. G. 1979 Lamet: Hill peasants in French Indochina AMS Press]。今回訪れたルアンパバーン県ナムバーク郡ナーヤンタイ村(タイ・ルーの村)において、その村で現地調査を行っている私たちの研究科(ASAFAS)の院生、吉田さんからも、市場などで山上の民族から様々な山の幸を買うという話を聞いた。また、タイ・ルーの人達は子ブタを山の上のラーオ・トゥンから買って来て育てるのだという。自分たちで子ブタを生ませることは無い。これは、哀牢山地での、山上の民族間でみられる関係と似ている。すなわち、田畑は少ないが森や草地が多く、餌にする野草の多い山の上の村(多くはハニ族の村)では、子ブタを産ませ、ある程度大きくなるまで育てる。それを標高が少し低く田畑の多い村の人(ハニ族またはイ族)が買う。低い村で豊富にあるトウモロコシを餌にしてやるとブタは早く肥る。十分に肥らせてから市場に持っていって売る。ただし、こうした関係にも変化が見られるようになってきた。それは、最近では色が黒く、鼻が短い在来種のブタに替わって、配合飼料でより早く生育する新品種(色が白く鼻が長い)のブタが普及し始めているからである。新品種の子ブタは、定期市で、建水(雲貴高原にある漢族の町)から来た漢族から買う。ラオス北部と哀牢山地とのこうした差異を生む大きな要因の一つは、山地斜面での主要な土地利用が、ラオスでは焼畑と哀牢山地では棚田(実は常畑も多い)という違いによるものであろう。
棚田(ここでは、谷底低地に接する斜面や狭い谷地に開いた田は含めない)は、雲南省では紅河南岸の横断山脈に多く見られ、そこから南に離れるにしたがって徐々に少なくなる(ただし、局地的に棚田が見られるところはある)。なぜ哀牢山地では棚田が昔から開かれ、それより南の山地では棚田がほとんど見られないのか。今回のラオスに行った際にも感じたのだが、南の山地では、水は山の斜面のかなり下でしか湧き出ない。ルアンパバーン県ビエンカム郡サムトン村に向かうバスで、尾根を縫いながら走っている道の脇には枯れた溝があるだけであった。雨季には水が流れるのだろう。哀牢山地では、最も村落の集中する1600mから1800mの標高帯を歩くと、乾季でも至る所に水の流れているのを見ることができる。東南アジアの山地では、人口増加や焼畑からの転換を進める政府の政策のため、水田の開発が進んでいると聞く。今回訪れたルアンパバーンのJICAプロジェクトでも、水田の開墾が支援項目に幾つか入っていた。しかし、水田を開けるのはせいぜい斜面の下部の谷地のみであって、哀牢山地のように豊富な沢の水を長い水路で引いてきて、斜面全体に棚田を展開することは不可能である。山の上に水が湧き出るかどうかというのは、地形や気象条件よりも地質条件の違いが大きく関係していると考えられる。地質条件が山地の農業を決定することを主張したのは小出博[1973 『日本の国土』 東京大学出版会]であるが、少なくとも古くから開かれてきた大規模な棚田地域については(おそらく常畑地域についても)、それは正しいのではないかと思う。
東南アジア大陸部山地をその周辺も含めて見ると、多民族が暮らす山地という共通点を持ちながらも、山地の土地利用には地域性があり、また民族と生業との関係も様々である。特に西南中国を含めてみた場合、Tapp, N.が指摘しているように、ラオスやタイでは焼畑民として知られているモン(ミヤオ族)やミエン(ヤオ族)はかなり昔から水田や常畑を開いて定住生活をしていた。広東省北西部のヤオ族は12世紀から棚田を開いているという[2000 “Miao cultural diversity and care of the environment” in Xu Jianchu (ed.) Proceedings of the Cultures and Biodiversity Congress 2002 July, Yunnan, P.R.China.]。哀牢山地の棚田も、漢籍などの記載から考えて、少なくとも700年前には、ハニ族によって開かれていたようである。東南アジア大陸部山地を考える際に、中国だけでなく、ヒマラヤなど他の周辺地域を含めて考えると、より多角的な理解ができるだろう。
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