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写真3: バンコク航空機からみたラオスの焼畑 |
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写真4: バナナの花・茹でたビーフン・香菜等を葉野菜で包み、つけだれで味付けて食べる料理。中央がバナナの花 |
11月26日から12月1日には、私はラオスを訪問するチームに加わった。ラオス・スタディ・ツアーのメンバーは、京都からは岩田明久助教授(ASAFAS教員)、竹田晋也助教授(ASAFAS教員)、東南アジア専攻の安達真平、内藤大輔、飛奈裕美、アフリカ専攻の近藤史、八塚春名、伊藤義将、風戸真理の9名、そしてラオス国立大学からダーヴォーン先生が参加した。日程は次の通りである。
11月26日にバンコクからルアンパバーンに飛行機で移動した(写真3)。小さいが感じのよい空港から、屋根付きの軽トラを2台雇って街の中心部のゲストハウスへ向かった。17時頃、JICAのラオスにおける活動のひとつである「ラオス森林管理・住民支援プロジェクト」(FORCOM)オフィス(在ルアンパバーン)を訪問し、チーフ・アドバイザーの岩佐正行氏からプロジェクトの概要をご説明いただき、実際のプロジェクト実施における問題点などに関してディスカッションした。その後、FORCOMスタッフと一緒に、ルアンパバーンの郷土食(薄切りにして干したカブラの揚げ物、魚のホイル包み焼き、バナナの花をはじめとした生野菜、ビア・ラオ)を食べた(写真4)。岩佐氏は私たちをご自宅にも招いて下さり、住民主体のプロジェクトを進めるなかで地元の人々とラポールをとるための工夫のひとつとしている手品を見せて下さった。
27日、ルアンパバーン県ナムバーク郡ナーヤンタイ村を訪問した。2人の通訳が加わり、バスで出発した。途中、市場で買い物した。ナーヤンタイ村では約100世帯、500人のタイ・ルーの人々が水稲耕作を中心とした農業に加え、森林や川からの採集、そして染織(これについては後述する)などの手工芸によって生計をたてている。この村は、在来の文化がよく保存されているとして「文化村」として行政から指定を受けていた。ここでは東南アジア専攻の大学院生の吉田香世子氏が宗教人類学の観点から、上座部仏教の実践のひとつである少年の出家という習慣とその変化を村の生活全体に位置づけて理解するとともに、その近年の変化に注目してこれが村に与えるインパクトについて調査している。
村に着くと、吉田さんが案内してくれて全員で村内を歩いて見た。ほとんどの家が高床式で二階部分は竹の網代壁か板壁で覆われている(写真5)。1階部分は柱だけで囲いがなく、高織機1台、藍壺3〜4つ、漁具、トリカゴなどがおかれていた。家の周囲には樹木が植えられているが、目隠しになるような垣根はない(写真6)。村はずれに寺院があり、少年僧が所属していた。寺院の外側には村の共同管理下にある水田が広がっていた。日没後、川で水浴びをした。夜は、村の政治的長(村長)の家と民間の世話役の家に分宿した。後者は吉田さんが父母とよんでいる方で、彼女はその家に寄宿して調査している。私は村長宅に泊まった。
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写真5: 高床式の家 |
写真6: 家の前で調理と団らんする人々 |
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写真7: 稲の脱穀を観察・体験する私たち |
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写真8: 学校で勉強する生徒と、手織りの布で手作りされたカバン |
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写真9: ナーヤンタイ村の村長の家での村人と私たちの共食 |
28日は、村近くの水田で脱穀作業を観察・体験した(写真7)。吉田さんによると、灌漑システム上ひとまとまりとされる(一つの取水口から水を取る)水田群では、稲の刈り取り・脱穀・運搬の作業を一斉に行い、水牛による食害を抑えている。作業を短期間で終わらせるためには労働交換が行われている。労働交換は基本的に2世帯間の関係として、1人1日の労働を提供すると、同じ労働が後で得られるという相互扶助であるが、このような関係の集積として大量の労働力動員が可能になっているという。水田の相続は、原則としてキョウダイ全員に均分相続される。利水は堰灌漑が主であるが、天水田も一部あるということである。
午後、村の学校と幼稚園を見学した(写真8)。そのあと、新しい生計手段や技術を積極的に取り入れている世帯の小規模多角経営の試みを見せてもらった。彼らは出作り小屋で、養魚、カモ飼育、養蜂、鉄鍛冶、トンキンエゴノキの植樹を始めていた。これは吉田さんが寄宿している世帯である。
午後、村長の家でバーシーとよばれる儀礼が行われた。去りゆく私たちに旅の安全と将来の安寧を祈念してくれるものだった。約15畳の部屋には中年・老年の男女が約20人座っており、彼らは肩に工業製品のタオルや手織りの布を約10cm×60cmに折りたたんだものを載せていた。部屋の中央には、盆の上に生のバナナの葉で塔が建てられ、竹串に約25cmの生成の綿糸を2つ折りにして約20本ずつのれん状に軽く結びつけたものがたくさん刺されている。盆にはバナナの房が複数おかれ、マリーゴールドなどの花が飾られている。私たちは盆の縁に手を触れるように促され、男性の1人が言葉を唱えながらバナナの葉を丸めて漏斗状にしたものの先を水(?)につけ、その水を私たちの手に時計回りに順につけていく。バナナの葉を何度も水に浸しつつ、3巡した。次に綿糸のついた串を1本取り、そこから綿糸を取って私たち1人1人の両の手首にかた結びする。その間も言葉を唱えている。一巡すると、それまで座ってみていたほかの男女が立ち上がり、串から糸を取り、近い場所にいる客人の手首に言葉を唱えながら糸を結ぶ。吉田さんの説明では、この儀礼はよい言葉を声に出しその言霊を糸に託して私たちに固定するものである。そのときに儀礼用の古い言語も使われる。私たちはたくさんの人々から1本または2本ずつ糸を結ばれ、最後には両腕に10本から20本もの生成の糸を結びつけられていた。糸がなくなったとき、私たちは盆の上にあったバナナを1本ずつ分け与えられ、儀礼が終わった。
儀礼の中で重要な位置を占めていたモノに注目すると、それはバナナとその葉、そして綿糸および綿織物だった。バナナと綿が象徴的な中心をなす文化に初めて触れてとても興味深かった。このような儀礼のなかで綿糸を使うのはタイ・ルーの文化ではなく、ラオの影響であるという。首都ビエンチャンの大学で受けた儀礼も基本的に同じであった。こちらはラオの正統な習慣であると思われる。
儀礼のあと、儀礼に参加した男女すべてと私たちが食事をともにした(写真9)。この村で私が食べた食事をまとめると、主食としてのモチ米におかず1〜2品(シチメンチョウ、ニワトリ、カエル、タケノコ、青菜のうち1つか2つが組み合わされた汁)とおかずの役割を果たすつけだれであった。
儀礼の後、私たちはバスでノーンキアオへ向かった。日没近くなって到着し、川辺のレストランでの夕食(炙ったマメジカなど)にはFORCOMプロジェクトの渡辺さんが合流して下さった。竹田さんによると、ここは欧米人バックパッカーのあいだで密かに注目されている場所であるという。
29日、ルアンパバーン県ビエンカム郡サムトン村へ向かう。カムの人々の村である。ここではFORCOMプロジェクトの支援のもとで焼畑から小規模多角経営への移行実践が行われている。FORCOMプロジェクトから、渡辺さんのほか、県のカウンターパート2人(写真10)がプロジェクトから支給されたバイク(写真11)で来て、一緒に焼畑と実験集落を見学した。FORCOMプロジェクトは、もともと焼畑の出作り小屋が集まって集落のようになっていた場所を、ヤギ・ブタ・ニワトリを集約的に飼育する拠点としていくことで、森林を保護しつつも住人が現金を獲得して生活していけるよう計画している。とはいえまだ焼畑もあった。陸稲(モチ)を主としてゴマやハトムギが混作された畑を見たが、収穫はすでに終わっていた。一方で、中国人がゴム園造林を数名の農民と個人的に契約して始めているという。
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写真10: FORCOMプロジェクトのスタッフたち |
写真11: FORCOMのローカル・スタッフが
プロジェクトサイトに通うためのバイク |
昼、学校でご馳走を食べた。モチ米のほか、カボチャ・ムラサキイモ・ヤムイモを塩を入れずに茹でたもの、ラタンの新芽の焼き物、ヤギの生血の凝固物、生のバナナの花を刻んだ和え物という豪華な品揃えだった。モチ米のどぶろくも珍しかった。その後、バスでルアンパバーンに戻り、ルアンパバーンの感じのよいゲストハウスに泊まった。
30日、午前中はダーヴォーンさん、飛奈さんとルアンパバーン市内を散歩した。12月2日が革命30周年記念日ということで、スタジアムでは記念式典の準備のための集会が開かれていた。街の至るところに、ラオスの国旗と赤字に黄色で鎌と槌がアップリケされた旗が並んで飾られていた。天井の高い古いコロニアル風建築の建物が欧米人好みのオリエンタル・カフェと雑貨屋として利用されているおしゃれな通りの至る所に、鎌と槌の旗がはためいているのは奇妙であった。
午後の飛行機でルアンパバーンから首都ビエンチャンに向かった。ビエンチャンではラオス国立大学におかれたフィールド・ステーションを視察した。フィールド・ステーションの駐在員の増原善之さんから、1994年以来関係を継続しているラオス国立大学(とくに林学部)と京都大学のあいだでの研究交流と現地への成果還元についてご説明いただいた。難しい状況のなかで、現地への学術成果の還元と現地研究者との学術交流という重要な課題にきわめて実践的にかつ果敢に取り組んでいることを知って感銘を受けた。
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