報告
 
  21世紀COEプログラム ラオス・スタディ・ツアー報告

「ラオス北部における焼畑とパラゴムノキ栽培:タンザニア研究者の視点から」

近藤史(アフリカ地域研究専攻)
 
出張期間: 2005年11月26日〜12月1日
参加したワークショップとスタディ・ツアー: Coexistence with Nature in a ‘Glocalizing’World
-Field Science Perspectives-および
北部ラオス・スタディ・ツアー
ワークショップの開催場所と主催したフィールド・ステーション:

ラオス人民民主共和国、ラオス・フィールド・ステーション

報告者の研究対象地域(関連フィールド・ステーション): タンザニア(タンザニア・フィールド・ステーション)

 

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写真1: ゴム畑:ナーヤンタイ村のパラゴムノキ・プランテーション造成地。遠くから眺めただけだが、手前の道路に駐車しているバスとの対比でその広さがうかがえる。
写真2: 沈香:ナーヤンタイ村の篤農家の男性から、出作り小屋の周囲に移植した沈香について説明を受けているところ。1番左の人物がその男性で、すぐ右に移植された沈香が写っている。樹高4〜5mまで順調に成長しているが、幹の内部に樹脂の層ができるかどうかは賭だという。
写真3: サムトン村:サムトン村の出作り小屋集落。集落の後ろに休閑地がみえる。ここではブタやヤギも飼養しており、FORCOMは家畜糞堆肥の農業利用を指導している。
  タイ・バンコクにおける京都大学国際シンポジウムに引き続き、ラオスにおけるスタディ・ツアーに参加した。5泊6日という限られた旅程ではあったが、参加メンバーの関心が多岐にわたっていたこともあり、岩田助教授(ASAFAS教員)と竹田助教授(ASAFAS教員)のご指導のもとで、ラオスの様々な側面について学ぶことができた。ここでは、2005年11月26日に訪問したルアンパバーン市内のJICAラオス森林管理・住民支援プロジェクト(Forest Management and Community Support Project 以下、FORCOM)事務所と、27日から29日の3日間にまわったルアンパバーン周辺のNayan Tai(ナーヤンタイ)村とSamton(サムトン)村で学んだラオス北部の農林業について、近年拡大の傾向にあるパラゴムノキ(ラテン名:Hevea brasiliensis)栽培に注目しながら報告する。
  まず、FORCOMのチーフ・アドバイザー岩佐正行氏によるご説明と、FORCOMニュースレター等の資料をもとに、ラオス北部の生業と自然環境の関係およびFORCOMの活動内容について簡単にまとめる。農林業が主な生業基盤であるラオスのなかで、今回のスタディ・ツアーで訪れた北部の山間地域では、とりわけ焼畑が人々の生活に重要な役割をはたしており、森林の動態に強い影響を与えている。近年では、定住化政策による休閑期間の短縮や、余剰米の販売を目的とした焼畑面積の増加に起因する、森林の劣化や減少が問題になっている1。政府は「森林を破壊する」という理由から焼畑を禁止する方針をとっており、農林普及局やその県・郡支局が焼畑にかわる森林利用を奨励している。とくに隣国中国との国境に近い地域では、ラオス政府の支持を後ろ盾に、中国系の企業によるパラゴムノキ栽培がはじめられている。
  こうしたなか、FORCOMはラオス北部を対象に、森林減少へのインパクトを弱め、安定した森林利用を実現することを目的として2004年2月にはじめられた。FORCOMの活動は、森林保全のためのルールづくりや造林活動の支援のような直接的アプローチと、家畜飼養や魚養殖、水田開発、果樹栽培といった焼畑に替わる現金収入源創出の支援のような間接的アプローチを組み合わせたものである。FORCOMが目指す農業形態は複数の小規模な現金収入源を組み合わせた複合農業であり、焼畑への依存度を下げるような活動を通して、最終的には焼畑をおこなわず、主食用のコメを水田稲作もしくは購入によって得る生活へと転換することが想定されているようであった。先述したパラゴムノキ栽培は焼畑にかわる森林利用のひとつであり現金収入も見込めるが、FORCOMの活動には含まれていなかったので理由を質問したところ、中国系企業の精力的な活動によって各地でパラゴムノキ園の造成がすすみ、栽培指導もおこなわれていることから、プロジェクトではこれを支援対象とはしないで、パラゴムノキ栽培の普及そのものについても関与しない方針をとっている、とのことであった。
  以下では、そのパラゴムノキ栽培について、ナーヤンタイ村とサムトン村における見聞をもとに現状を概説したうえで、それが村びとの生活にどのような影響を及ぼすのか、現金収入と農業の持続性という点から考えてみる。ふたつの村のうち、ナーヤンタイ村ではFORCOMは活動していないが、ASAFAS院生の吉田さんがフィールドワークをしており、彼女と村びとの案内で村内をまわった。サムトン村ではFORCOMが活動しており、FORCOMスタッフと村びとの案内で村内をまわった。
  先に訪れたナーヤンタイ村は、ルアンパバーンから北東へマイクロバスで4時間ほどの場所にあり、約100世帯、500人ほどのルーの人びとが主に水田稲作を営み、うち20世帯弱は焼畑による陸稲栽培もおこなっている。トラクターや水牛犁を使用できる水田と違い、焼畑の造成には大変な労力がかかるので、水田稲作だけでは自給できない場合に焼畑をおこなうという。吉田さんの説明によれば、焼畑をおこなう世帯はおおむね生活が厳しく、またルーの人びとは水田稲作に誇りをもっているので、焼畑をしていると公言するのは「恥ずかしいこと」であるそうだ。水田や焼畑から収穫されるモチ米は、主食として日々消費されるほか、ラオラオとよばれる蒸留酒の原料となり、また余剰分は商人に販売されて現金収入となる。川沿いにひろがる低地が水田で埋め尽くされているのとは対照的に、山々は焼畑と休閑地が散在して全体的に緑が茂っている印象だった。
  ところが、村の篤農家の出作り小屋から彼の水田を見渡すと、背後に連なる山の中腹に、周囲の焼畑や休閑地の存在がかすんでしまうほど大きい焼け跡があった。ここには中国系企業の経営するパラゴムノキ・プランテーションがつくられるのだという。これほど広い土地であれば代価として相応の額が支払われて当然だと思うのだが、実際には県と企業のあいだで50年間の無償貸与契約が結ばれており、村は土地を搾取されたようなものだと吉田さんは憤慨していた。ナーヤンタイ村では従来から水田を囲む山々を焼畑に利用しており、この場所は当時ちょうど休閑期間中で植生が回復していた。この場所はまた、隣村との境界に位置するため土地登記があいまいなまま残されてもいた。県はこうした事情を巧みに利用して「使っていない土地だ」という理屈をつけ、村に相談しないままプランテーションを誘致したそうだ。県は、プランテーションの造成による焼畑用地の縮小について、村びとはプランテーションの賃労働によって現金収入を得られるので(コメを購入すれば)問題ないと説明したという。だが、プランテーション用地の開墾作業に雇われた人びとからは「賃金が安い」「労働量を不正に少なく見積もられている」など不満の声があがっているそうなので、これからはじまる生ゴム樹脂の採取作業などの賃労働が十分な現金収入源になるとは考えにくいのではないか。むしろ、狭くなった土地で焼畑をおこなうために休閑期間の短縮を余儀なくされることが予想される。やむをえず休閑期間の不十分なまま焼畑を続けることで、陸稲の生産性が低下し、また森林の劣化がすすむ危険があるのではないかと思えた。
  こうしたパラゴムノキ・プランテーションとは対照的な森林利用として、先述の篤農家による沈香(Thymelaeaceae Aquilariaceae)栽培があげられる。この男性は1995年に、自分の所有する水田を見渡せる小高い土地とその裏山をまるごと購入して出作り小屋を建てた。小屋の周囲には養蜂箱を設置したり池を掘って魚を養殖したり、裏山の森には沈香など多種類の有用樹を植樹するなど、生計を豊かにするための様々な試みをおこなっている。竹田助教授によれば、ラオス北部では近年「ベトナム商人が直径30cmの沈香を1本500US$で買うと言った」との噂が流れて沈香の植樹が密かなブームになっているそうだが、ナーヤンタイ村ではまだ、彼以外に沈香を植えた人はいないという。彼は裏山に一本の沈香の大木をみつけて、その根本から実生を掘り出しては移植するということを繰り返し、2001年から今までに600本もの沈香を植えたそうだ。こうした村びとの手による等身大の試みのなかから、持続的な農林業の道を開く鍵がみつかるのかもしれない。
  ふたつめに訪れたサムトン村は、ルアンパバーンから北東へ200kmほど離れた、標高800mの山間の村である。約80世帯、500人ほどのカムの人びとが焼畑稲作を営む、FORCOMの活動対象地域である。以下では、村びととFORCOMスタッフによる説明をもとにサムトン村のパラゴムノキ栽培について検討する。サムトン村では中国へ続く街道が村を貫いており、人々は街道沿いに集住しているが、焼畑はその付近から5km以上離れた地域まで広がっている。そのため所有地が近接する世帯ごとに集まって、焼畑近くに出作り小屋の集落を構えており、農繁期はそこに寝泊まりする。焼畑から収穫されるモチ米はナーヤンタイ村と同様に、主食として消費されるほか、醸造酒や蒸留酒の原料となり、また余剰分は販売されて現金収入になる。
  FORCOMと竹田助教授の調査によれば、この村では現在、焼畑の休閑期間が平均約6年と、従来の11年の半分程度にまで短くなっているという。従来は焼畑跡地に2次林が再生した場所を再び開墾していたが、現在では2次林の再生を待たずにユーパトリウム(カム名:ニャワーイ、ラテン名:Eupatorium odoratum)の草地を開墾することが多いそうだ。村びとの話でも、出作り小屋集落のまわりで、高さ1.5〜2メートルのニャワーイの草地を指して「このあたりは休閑2〜3年目だが、あと1〜2年すれば灌木が4〜5メートルに育つので、それを伐採して焼畑をつくる」という説明があった。ユーパトリウムは熱帯アメリカ原産の外来種であり、この村では30年ほど前から焼畑跡地に繁茂するようになったというから、休閑期間の短縮もここ数十年のことではないかと思う。FORCOMは、短いサイクルの焼畑による森林の劣化を抑制するために、植林とあわせて家畜飼養と家畜糞堆肥の利用などを支援していた。
  またFORCOMの活動とは別に、約50世帯が中国企業と契約をむすび、パラゴムノキなどの樹木栽培をはじめようとしていた2。樹木は全て街道から2km以内の範囲に植えるように求められており、収穫の終わった街道沿いの焼畑を所有する村びとは、その場所で12月からパラゴムノキを植える準備をはじめるという。苗の有償貸与および栽培方法の指導があり、苗代の借金は生ゴム樹脂を採取した収入のなかから返済すればよいということであった。また、生ゴム樹脂の生産について村びとが中国系企業から受けた説明は、以下の4点にまとめられるようだ。1)植樹から生ゴム樹脂を安定して採取できるようになるまで7年かかる。2)一日に採取できる樹脂の量は、樹木1本あたり、7年目で300g、8年目以降で3〜5kgになる。3)樹脂は採取された日のうちに集荷される。4)樹脂の買い取り価格は100gあたり5,000kip3と定められている。
  焼畑跡地をパラゴムノキ園に転換するのは今年だけのつもりか、来年以降も転換を続けていくのか、という点を聞き忘れたが、村びとは将来の生計について、生ゴム樹脂の販売収入から自給用のコメを購入できるようになれば焼畑をやめるつもりだと話していた。20世紀初頭にパラゴムノキ栽培がひろまった東南アジア島嶼部の小農のあいだでは、焼畑の耕作を放棄する際にパラゴムノキを植えておき、森林が回復して次の焼畑をおこなうまでのあいだに休閑地で適宜ゴムの樹液を採取することで、パラゴムノキ栽培と焼畑の融合による安定した生計が確立されているという(阿部1997)。だがサムトン村では焼畑の休閑期間が6年と、生ゴム樹脂の採取をはじめるまでに必要な7年よりも短く、またパラゴムノキを植える場所も街道沿いに限定されている。したがって、パラゴムノキ栽培と焼畑との融合が実現する可能性は極めて低い。各世帯が多量の生ゴム樹脂を採取できるようになるとしても、野火などの自然災害による生産性の低下や、なんらかの社会的、経済的な理由による集荷の滞り、および生ゴム樹脂の価格下落といったゴム園経営の悪化に備えて現金収入源の多角化をはかることが、FORCOMの活動には期待される。
  以上、ナーヤンタイ村とサムトン村における農林業について、特にパラゴムノキ栽培を中心に考えてみた。最後に、今回のスタディ・ツアーを終えて、私の調査対象であるタンザニア南部・ベナの人びとの農業との比較という視点から感じたことを綴ってまとめにかえたい。ベナの農村では、従来は焼畑でシコクビエを栽培して、主食として日々消費するほか、酒の原料として利用していた。この酒は日常的に消費される嗜好飲料であると同時に、結婚式や葬式などの儀礼や、農作業の協同労働における振る舞い酒としても重要な役割を担うものである。そのため、1964年のタンザニア独立以降にトウモロコシの常畑栽培が普及して、主食作物がトウモロコシにかわった現在でも、焼畑は規模こそ縮小したが毎年造成されて、酒造用にシコクビエの栽培が継続されている。このように複数の農耕を併行しておこなうことはまた、不規則な降雨などの厳しい自然環境や、化学肥料の遅配や価格高騰が著しい、農作物の価格変動が激しいといった不安定な社会・経済状況のもとにあるタンザニアにおいて、安定した生計を維持するための戦略のひとつでもある。ベナの人びとと寝食をともにしながら調査を続けてきた私にとって、わずか数十年前にベトナム戦争の戦場となり、その後も1975年の独立と社会主義政権の誕生、1980年代半ば以降の市場経済の導入という社会状況の激変を経験しているサムトン村の人びとが、パラゴムノキ栽培がうまくいけば焼畑を完全にやめるような口ぶりであったことは、強い違和感を覚えるものであった。FORCOMは、ラオス南部の水田から収穫されるコメに余剰があり市場へ放出されていることから、北部では農民が現金で自給用の米を買えるようになった分だけ焼畑を縮小するだろうと想定し、現金収入源の多角化を支援しているという。生活に深く関わるモチ米の入手が比較的容易であることが、焼畑による陸稲栽培への執着をうまない理由なのだろうか。それとも実際には焼畑を継続するつもりだが、私たちがFORCOMの活動を視察するようなかたちで村を訪れたため、村びとは気をつかって「焼畑をやめる」といったのではないか、という私の憶測は穿ち過ぎだろうか。あるいは、社会状況の変動に対してサムトン村の人びとはベナとは異なる戦略をもっているのだろうか。10年後、パラゴムノキ栽培が軌道に乗ったあとで彼らが本当に焼畑をやめてしまうとすれば、タンザニアとの対比で非常に興味深いことであり、詳しい調査をおこなってみたいと考えた。
 
 

1ラオス全体の統計でみた場合、国土面積に占める森林被覆面積の割合は1940年代の70%から、1992年には47%、2002年には42%にまで減少している。
2中国系企業とサムトン村の人びとのあいだで栽培契約が結ばれた樹木には、パラゴムノキのほか、スーパームー、サーチェがあり、契約を結んだ各世帯は、これら3種のなかから好きなものを選んで栽培できるという。スーパームーおよびサーチェの樹種は不明。
3村びとは、パラゴムノキを来年植えたら7年後以降、定額で樹脂を買い取ってもらえる約束だと説明してくれた。しかし、天然ゴムの国際市場価格が変動するなかで、企業が将来にわたって定額での買い取りを保証するとは考えにくい。現時点での買い取り価格に関する言及を村びとが誤解している可能性もある。

阿部健一1997「ゴム林の拡大」京都大学東南アジア研究センター編 『事典東南アジア ―風土・生態・環境―』 弘文堂pp.332-333。

 
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