研究者紹介

佐川 徹

Toru Sagawa
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
アフリカ地域研究専攻(博士課程)

災いと恵み

今年の8月半ばに「エチオピア西南部の高地に発するオモ川の氾濫によって周辺地域に大きな被害がでた」との報道がくりかえしなされた。その最大の被害者は、オモ川が流れ込むトゥルカナ湖の北岸(標高約380m)にくらすダサネッチの人びとであった。ぼくはちょうどその時期にかれらの村に滞在していた。ぼくが暮らしていた村も周囲を水に囲まれ、町へ出るためには胸にまで浸かる水をかき分けてすすまねばならなかった。友人の家畜は水に流され、モロコシを貯蔵した穀物庫は水に浸かった。

川の水位がもっとも高くなった10日ほどのあいだ、増水によって村に取り残され身動きが取れなくなった人びとを救出するために、アワサ(州都)からやってきたヘリコプターとモーターボートが毎日町と村のあいだを往復していた。メレス首相が視察に訪れたこともあってか、エチオピアのマスメディアは連日このニュースを伝えていたようだ。10月にアジスアベバにでてきたぼくは、何人かの知り合いから「ひどい災害だったようだけれどだいじょうぶだった?」と心配してもらった。

しかしダサネッチの人びととともに暮らしていて、ぼくはこの洪水が「大災害」であるという印象をもたなかった。町に向かう際に泥と水に足を取られて転んだぼくが「オモ川のくそったれ」と吐き捨てると、ともに歩いていた友人は川を罵ったぼくをいさめて言った。「まあそういうな。いまから半年もすればここはすべてモロコシ畑だ。今年はわれわれの腹が空くことは決してないだろう」。

オモ川が氾濫するのはなにも今年にかぎったことではない。そして毎年、氾濫は人びとに恵みをもたらす。川は5〜6月ごろから高地の降雨を受けて増水を開始し、7〜8月ごろには河岸を越えて氾濫し平野を水が覆う。この水が高地から運んできた肥沃な土壌は、土地の生産力を上げる。ひと月もしないうちに平野に達した水が引き始めると、人びとはそれらの土地にモロコシを播種し始める。氾濫原の豊かな栄養分を受けてモロコシはみるみるうちに成長し、11月ごろには最初の収穫期を迎える。また、乾燥地域で家畜を飼養するためには乾季に水と牧草をどう確保するのかがもっともむずかしい問題だが、ダサネッチの家畜たちは川の水と氾濫がひいたあとに生えてくる青草のおかげで乾季でも安定した搾乳量を保つ。ダサネッチ・ランドでは12〜3月の乾季が一年でもっとも食糧が豊富な時期だ。収穫したばかりのモロコシにたっぷりのミルクやバターを混ぜて食べる。この地は降水量が400ミリ程度であるにもかかわらず、オモ川の氾濫のおかげで豊かで安定した食糧生産が可能となっているのである。

ダサネッチは太陰暦を採用し一年を12ヶ月に分ける暦をもっているが、この暦ではオモ川の氾濫が始まる7月が一年の開始の月になっている。ダサネッチ語で「オモ川」と「一年」はともにワルという語で示される。つまりダサネッチにとって「一年」とはオモ川の氾濫に始まり、いったん川の水位が下がり、再び川が増水を開始するまでの期間を指しているのである。人びとの一年の生活パターンも川の水位の増減と深く結びついている。おおまかに言えば9〜3月を氾濫原で過ごしたかれらは、大雨季(3〜5月)が訪れると家畜とともにオモ川から離れて草が生え始めた高地へ移動して、川が氾濫する季節をここで過ごし、平野の水が引き始める9月になると再び氾濫原へ戻ってくる。

かれらは川が例年に比べて大きく氾濫した年を「大きなオモ川」の年と呼ぶ。それらの年には例年では水が及ばない地域にも水が及ぶので、さまざまな被害がでることもある。今年はそのケースである。しかし人びとはそれらの年を氾濫がもたらした被害とともに語るのではなく、むしろ「大量のモロコシ(が取れた)」年として肯定的に語ることが多い。氾濫が大きい年は耕作できる土地も広い。「大きなオモ川」の年は「われわれの腹が決して空かなかった」年である。一方、水量が少なく川が氾濫しなかった年を人びとは「オモ川が拒絶した」年と呼び、「大きなオモ川」の年とは対照的に食糧確保に苦しんだ年として語る。モロコシは十分な収穫をあげることができず牧草も不足する。しかしそのような年に生存手段を与えてくれるのもまたオモ川である。これらの年はしばしば、飢えをしのぐために食べた魚や木の実の名前とともに記憶されている。人びとは翌年に「大きなオモ川」がやってくるのを期待しながら、川での漁撈や河辺林での採集に依存して飢えをのりきるのである。ダサネッチはオモ川がもたらしてくれるこれらの恵みを十分に認識していて、川の流れるさまを唄に歌い、氾濫によって大地に豊かさがもたらされるようカミに祈りを捧げる。

オモ川の恵みに依存しているのはダサネッチだけではない。ダサネッチの近隣にくらす諸民族は食糧生産を不十分かつ不安定な天水のみに頼っている。そのためかれらは干ばつに見舞われると、氾濫原で生産された穀物を求めてダサネッチの地を訪れる。するとダサネッチは飢えに苦しむ人びとにしばしばモロコシを無償で分け与える。ダサネッチの成人男性の7割以上が近隣の諸民族とのあいだに複数の友人・親族関係を有しているが、これらの関係の多くは、かれらが干ばつで困窮した相手にモロコシを贈与したことをきっかけに形成されている。ダサネッチはみずからを「オモ川の人びと」と呼んで、「いつも腹が空いている」周辺民族に惜しみなくモロコシを分け与える自分たちの気前のよさを、誇らしげに語る。

今回の氾濫で家や生計手段を失った人が多くいるのは事実である。それらの人びとが一刻も早く日常生活へ復帰できるような援助が必要である。その意味で、氾濫がもたらした災害の側面に焦点を当てたマスメディアの報道は重要な意味をもっている。

だが、政府は今回の災害を受けてダサネッチに対する再定住化政策を検討し始めたという。人びとを「危険な」オモ川の氾濫原から「より安全な」地へと移住させる計画であるという。この計画が「国民の生活を改善するために介入する」という家父長主義的な「良心」から生まれたのか、あるいはより複雑な政治的背景のなかから生じてきたのかは、いまのところよくわからない。いずれにしても、人びとを生まれた土地から引き剥がし見知らぬ土地へ半強制的に移住させることを正当化するイデオロギーとして、「災害をもたらす氾濫に苛まれた人びとにより安全な居住地域を提供する」といった類の言明に勝るものはないであろう。「飼い慣らされた」水や河川と暮らすわれわれにとって氾濫は災いをもたらすだけのものであり、それがもたらす恵みを想像することは困難である。それは都市に住むエチオピア人にとっても同じだ。ぼくのことを心配してくれたアジスアベバの知り合いも、「なぜかれらはそんな危険なところに好んで住んでいるのか」と、あたかもダサネッチを非難するかのような口調で述べた。

しかし、「大きなオモ川」がやってくるようカミに祈りを捧げ、みずからを「オモ川の人びと」として言及するダサネッチは、これからも川とともに暮らしていくことを望むのではないのだろうか。たった一度のやや大規模な洪水といくらか誇張された報道に突き動かされて(あるいはそれを正当化の材料にして)なされる「援助」は、かれらがこれまでオモ川の氾濫サイクルを考慮しながらつくりあげてきた生活の仕組みを根本から変えてしまうことによって、人びとに「恵み」ではなく「災い」を招くことになるかもしれない。人びとが「大きなオモ川」がもたらす危険により迅速に対応することを可能にするために、オモ川上流の水位の変動情報を定期的に提供していくことなど、いまの暮らしを維持したままですることができる「援助」はほかにある。

9月になると川の水位は下がり、村近くにまで及んだ水も乾きだした。人びとは水が引いた土地にさっそくモロコシを播種し始めた。例年に比べて耕す土地は広大だ。一家総出で畑に出向く。親たちは耕作に励み、子供たちは氾濫の残り水から捕まえてきた小魚たちを焼いて食べている。10月に町に帰る際、一ヵ月半前に胸まで浸かって歩いた道の周囲は、友人がいっていたとおり見渡すかぎりのモロコシ畑になっていた。これから二ヶ月もすれば人の背を優に超えるまでに育ったモロコシがダサネッチ・ランド一帯を覆い、それから一年のあいだ、かれらの腹が空くことは決してないだろう。