報告
渡航期間: 2003年3月2日〜2003年3月8日    派遣国: ミャンマー
  出張目的
  ヤンゴン・フィールド・ステーションの開設準備
  安藤和雄 (東南アジア研究所)

 

  活動記録
 

3月2日(日

  • 関西 − ヤンゴン
      3月3日(月)〜7日(金)
  • SEAMEO-CHAT(東南アジア教育省組織歴史伝統地域センター)、ヤンゴン大学理学部動物学科、UHRC(ヤンゴン歴史研究所)を訪問し、カウンターパートと協議をもつとともに、文化省芸術局、国立文書館をカウンターパートとおもに訪問し、意見交換および英領期の農具に関する資料を収集する。また、ヤンゴン市内、Taikkiの街のTaik Gyi Bazar(BaAoZay)を訪ね、農具販売店で犂先の調査、鍛冶屋で聞き取りをする。
      3月8日(土)
  • ヤンゴン − 関空

     

      結果と進捗状況
        
    (1)フィールド・ステーション運営
      ミャンマーは、現在でも地域研究におけるフロンテイアとして未知なる魅力に溢れている。外国人研究者が羨望した地域に、私たちは機関型フィールド・ステーションを開設できる幸運を得ることができた。東南アジア研究所が2002年3月にMOUを締結したSEAMEO-CHATが私たちのメインカウンターパート機関である。今回の1週間弱の短い出張の目的は、すでに2003年2月よりヤンゴンに入っていた大西信弘さん前東南アジア研究センター非常勤研究員、現21COE研究員と合流して、4月からのSEAMEO-CHAT(大西報告参照)内に機関型フィールド・ステーションの事務所を開設し、臨地教育、共同研究の拠点とするための準備をするためである。
      「おもな活動記録」に示されているように、私に担わされた役割は、機関型フィールド・ステーション受け入れ事務局となるSEAMEO-CHATの所長、顧問、プログラム・オフィサー、国際関係担当オフィサーなどとフィールド・ステーションの基本的な運営方法と当面2003年度の研究年間計画について合意し、この計画に沿った共同研究の現地側の核となる歴史研究所、ヤンゴン大学地理学科、動物学科、植物学科に勤めるカウンターパートチームとの打ち合わせを行うことであった。上記以外にも農業潅漑計画局、農業大学、林業大学林業大学からのカウンターパートがミャンマーで実施される21世紀COEプログラムに参加しているが、実質的な農業分野でのカウンターパートである農業大学、林業大学は、ヤンゴンから数百キロメートル北に離れたイエジンに所在していることからや、すでにASAFASの院生である鈴木さん(平成13年度第3年次編入学)が研究を進めている林業大学に機動型フィールド・ステーションを開設している(鈴木報告参照)。したがってヤンゴンの機関型フィールド・ステーションの直接運営はSEMEO-CHATが責任を負い、ステーションを中心とするカウンターパートとの共同研究を展開する計画となっている。ただし、ワークショップ、セミナーなでの開催では、機動型フィールド・ステーションとの積極的な交流が計画されている。また、ワークショップの開催については、他のプロジェクトなどとの積極的な共同開催を心がけている。ちなみにSEAMEO-CHAT をカウンターパートとして実施されている他の科研プロジェクトが2003年度末に実施する国際セミナーについて、フィールド・ステーションの活動の一環としてサポートし共同開催する予定である。
    (2)臨地教育
      ヤンゴンの機関型フィールド・ステーション活動の核は、ヤンゴン大学大学院生も参加する共同研究と臨地教育の一体化にある。現在ASFAS大学院生では、文部科学省のアジア派遣プログラムによりSEAMEO-CHAT の客員研究員となっている中西さん、先に紹介した鈴木さんの二人が当地でフィールドワークを継続している。今後ASAFAS大学院生の参加が見込まれるとはいえ、その数が21世紀COEプログラム期間に大幅に増加するとは考え難く、日本の他大学の大学院生の参加をもちろん視野にいれるべきであるが、カウンターパートとともに私たちがヤンゴン・フィールド・ステーションで力を注ぐべく計画したのがヤンゴン大学大学院生の共同研究への参加による臨地教育である(臨地教育に焦点を置いた共同研究は2003年4月にすでに開始されているので、詳しくは大西報告参照)。
    (3)共同研究
      共同研究については、ヤンゴン市から3〜4時間以内のバスの旅でアクセスできるイラワジデルタ内に調査地域を設置し、カウンターパートが揃って参加する共同調査を2〜3月に一度2週間ほどの期間で行い、院生は、この期間以外にも各自の都合が許される限りフィールドに入るという計画が合意された(すでに実施されているので詳しくは大西報告参照)。3月末の時点で数名のヤンゴン大学大学院生の参加が予定されていた。こうした共同研究・臨地教育では、ヤンゴン・フィールド・ステーションの研究テーマである「ミャンマー社会の多様性とその変容」に収斂されていく個別研究テーマが設定される(大西報告参照)
     
    (4)個別研究:ビルマ犂の刃先を求めて
      私の個別研究テーマは、「ミャンマー農業における在地の技術の展開」及び農村開発である。調査村落地域が選定された後に、このテーマに沿ったフィールド・ワークをすすめることになるが、アジアの農業技術・農村発展におけるミャンマーの周辺地域とのの関連性に興味を抱き、ミャンマーと国境を接するバングラデシュ東部チッタゴン、アッサム・モニプール、雲南、タイ北部・ラオスとの農具や農耕の比較研究を進めている。ミャンマーでは主にアラカン州において調査を行ってきた。同地域では、この20〜50年くらいの間にHte(Te)と呼ばれるビルマ犂もしくは中国犂がAtと呼ばれるインド犂に代替したことが明らかになった。犂の形態が異なる(写真1、2)が、犂の刃先もHteでは鋳造が多く、Atは鍛造である。鋳造と鍛造の相違は、野鍛冶の本を紐解くと(朝岡康二「野鍛冶」法政大学出版局1998:7)、中国と南アジア、東南アジア(インド文化の影響圏)の犂先製作の文化の違いに源を探ることができよう。農業の近代化の側面ばかりに目が奪われそうであるが、アジアの村々で起きている農業技術の発展を理解するためには、こうした農民が主体的に技術を受容変容させる「技術革新」を再評価していかなければならない。伝統vs近代、在来vs外来という農業技術の二元論では捉えきれない技術革新こそが、農民の主体性を問うた技術論で論じられる「在地の技術」を生成させるのである(安藤和雄「『在地の技術』の展開」『国際農林業協力』24(7)国際農林業協力協会2001:2−21)。今回の出張においても打ち合わせの時間の合間をぬって、ヤンゴンでは農具が置かれている店があると教えられたシュエダゴン・パゴダ門前の雑貨屋やヤンゴン郊外のインド系の鍛冶屋、ヤンゴンから2時間ほど車で北に走ったTaikkyi(タイヂー)のバザールの雑貨屋と近辺の鍛冶屋を調査で訪れた。タイヂーの雑貨屋には、3種類の鋳造の犂先(Hte Twa)(写真3)と1種類のTun(Thun)と呼ばれるまぐわ(写真4)の歯(もしくは櫛)の部分にかぶせる「まぐわの犂先型の歯」(Tun Twa)(写真5)があった。3種類の犂先は、中国系の店の主人の説明によれば、左からShan Hte、 Alen Hte 1(小)(もしくはNyaung Kayai) Hte、Alen(またはAlan) Hte 2(大)と呼ばれている。これらの犂先の名称は、その形式が作られている地名だそうだ。いずれも、家内工業もしくは会社でつくられたものであるという。Alen HteShan Hteの違いは、前者ではカーブとなった撥土板にねじれが大きく入っていて、耕起こした土がさらに反転しやすいようになっている。
      タイヂーの鍛冶屋(写真6)が、鋳造のHteが一般的だが、鍛造のHteも使われていることを教えてくれた。鋳造のHteTan Gyuat Hte(鉄の柔らかい犂)、鍛造をTan Hte(鉄の犂)と呼ぶ。このあたりの農民は、この二つの分類を使っている。この鍛冶屋はビルマ族で、父、祖父も鍛冶屋だった。Tan Hteを作るが、Tan Hteは一つ7500Kyat(約1ドル)、Tan Gyuat HteNyaung Hteは500Kyatである。鍛造の犂先は溶接で修理できるが鋳造は修理ができない。また、鍛造の犂先が、鋳造よりも古いと指摘してくれた。私たちのカウンターパートによれば、彼の隣人のミャンマー南部モン州の人の話では、モン州の一地域では伝統的に蹄耕(恐らく水牛だと思われる)をしていて、英領後にShan Hteが入ったという言い伝えがあるという。この時のShan Hteが鋳造か鍛造かミャンマーでの犂の展開を考える上で大変興味深い。
      また英領期の地誌などにも、ビルマ族がシャン族からHteの犂耕を教わったという記載が散見され、Shan Hteの名称といい、シャン族がミャンマーにおける中国犂の普及に大きく関わっていたことを想像することができよう。カウンターパートによれば、犂先は、Shan Hte、 Alan The、 Theippan Hte(科学的犂)の3種類に大きく分かれるという。また、ビルマ族が耕起農具として、古くは犂をもたず まぐわ のみであったことが知られているが、UHRCの研究者の教示によれば、バガンの遺跡群の中に13世紀に建設されたDhammarajrka Stupaの壁面のプレートには まぐわ であるTunで耕起している絵が描かれている。Hteが描かれていたのかどうか確かでないが、Tunのみのプレートが残されているというもの示唆的である(文章中の英語表記は、調査の通訳をつとめてくれたミャンマー人のA.S.さんの英語音表記によった)。
      写真1 ビルマ犂(Hte)(ラカイン州)
     
      写真2 インド犂(At)(ラカイン州)
     
      写真3 犂先
     
      写真4 まぐわ
     
      写真5 まぐわの鉄の歯
     
      写真6 鍛冶

     

      今後の課題
     
    写真7 カウンターパートとの会議
      フィールド・ステーションが必要なのは、日本人研究者のためだけの便宜にあるのではなく、これまでミャンマーの国ではなじみの薄い文理融合による専門を越えた学際共同研究をこの国の研究者にも理解してもらうためでもある。そのためにはカウンターパートやヤンゴン大学院生が、フィールド・ステーション活動にいかに主体的に取り組んでもらうかにかっている。フィールド・ステーション開設の準備は順調に進んだ。今後は実施面で、共同研究の柱をしっかりと打ち出し、共同研究に参画することによって院生の臨地教育が円滑に実現している具体的な手ごたえを得ていかなければならない。そのためには、調査地での共同フィールドワーク以外でも、日常的な勉強会や研究会、打ち合わせ会議、資料収集、ホームページによる情報発信など、カウンターパート、ヤンゴン大学院生の間のチームワークがしっかりと芽生え、根付いていくステーション運営を現実のものとする努力が必要となる(写真7)。

     

     
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