|
(4)個別研究:ビルマ犂の刃先を求めて
- 私の個別研究テーマは、「ミャンマー農業における在地の技術の展開」及び農村開発である。調査村落地域が選定された後に、このテーマに沿ったフィールド・ワークをすすめることになるが、アジアの農業技術・農村発展におけるミャンマーの周辺地域とのの関連性に興味を抱き、ミャンマーと国境を接するバングラデシュ東部チッタゴン、アッサム・モニプール、雲南、タイ北部・ラオスとの農具や農耕の比較研究を進めている。ミャンマーでは主にアラカン州において調査を行ってきた。同地域では、この20〜50年くらいの間にHte(Te)と呼ばれるビルマ犂もしくは中国犂がAtと呼ばれるインド犂に代替したことが明らかになった。犂の形態が異なる(写真1、2)が、犂の刃先もHteでは鋳造が多く、Atは鍛造である。鋳造と鍛造の相違は、野鍛冶の本を紐解くと(朝岡康二「野鍛冶」法政大学出版局1998:7)、中国と南アジア、東南アジア(インド文化の影響圏)の犂先製作の文化の違いに源を探ることができよう。農業の近代化の側面ばかりに目が奪われそうであるが、アジアの村々で起きている農業技術の発展を理解するためには、こうした農民が主体的に技術を受容変容させる「技術革新」を再評価していかなければならない。伝統vs近代、在来vs外来という農業技術の二元論では捉えきれない技術革新こそが、農民の主体性を問うた技術論で論じられる「在地の技術」を生成させるのである(安藤和雄「『在地の技術』の展開」『国際農林業協力』24(7)国際農林業協力協会2001:2−21)。今回の出張においても打ち合わせの時間の合間をぬって、ヤンゴンでは農具が置かれている店があると教えられたシュエダゴン・パゴダ門前の雑貨屋やヤンゴン郊外のインド系の鍛冶屋、ヤンゴンから2時間ほど車で北に走ったTaikkyi(タイヂー)のバザールの雑貨屋と近辺の鍛冶屋を調査で訪れた。タイヂーの雑貨屋には、3種類の鋳造の犂先(Hte Twa)(写真3)と1種類のTun(Thun)と呼ばれるまぐわ(写真4)の歯(もしくは櫛)の部分にかぶせる「まぐわの犂先型の歯」(Tun Twa)(写真5)があった。3種類の犂先は、中国系の店の主人の説明によれば、左からShan Hte、 Alen Hte 1(小)(もしくはNyaung Kayai) Hte、Alen(またはAlan) Hte 2(大)と呼ばれている。これらの犂先の名称は、その形式が作られている地名だそうだ。いずれも、家内工業もしくは会社でつくられたものであるという。Alen HteとShan Hteの違いは、前者ではカーブとなった撥土板にねじれが大きく入っていて、耕起こした土がさらに反転しやすいようになっている。
タイヂーの鍛冶屋(写真6)が、鋳造のHteが一般的だが、鍛造のHteも使われていることを教えてくれた。鋳造のHteをTan Gyuat Hte(鉄の柔らかい犂)、鍛造をTan Hte(鉄の犂)と呼ぶ。このあたりの農民は、この二つの分類を使っている。この鍛冶屋はビルマ族で、父、祖父も鍛冶屋だった。Tan Hteを作るが、Tan Hteは一つ7500Kyat(約1ドル)、Tan Gyuat HteのNyaung Hteは500Kyatである。鍛造の犂先は溶接で修理できるが鋳造は修理ができない。また、鍛造の犂先が、鋳造よりも古いと指摘してくれた。私たちのカウンターパートによれば、彼の隣人のミャンマー南部モン州の人の話では、モン州の一地域では伝統的に蹄耕(恐らく水牛だと思われる)をしていて、英領後にShan Hteが入ったという言い伝えがあるという。この時のShan Hteが鋳造か鍛造かミャンマーでの犂の展開を考える上で大変興味深い。
また英領期の地誌などにも、ビルマ族がシャン族からHteの犂耕を教わったという記載が散見され、Shan Hteの名称といい、シャン族がミャンマーにおける中国犂の普及に大きく関わっていたことを想像することができよう。カウンターパートによれば、犂先は、Shan Hte、 Alan The、 Theippan Hte(科学的犂)の3種類に大きく分かれるという。また、ビルマ族が耕起農具として、古くは犂をもたず まぐわ のみであったことが知られているが、UHRCの研究者の教示によれば、バガンの遺跡群の中に13世紀に建設されたDhammarajrka Stupaの壁面のプレートには まぐわ であるTunで耕起している絵が描かれている。Hteが描かれていたのかどうか確かでないが、Tunのみのプレートが残されているというもの示唆的である(文章中の英語表記は、調査の通訳をつとめてくれたミャンマー人のA.S.さんの英語音表記によった)。
|
|