ラオス・ラーンサーン王国行政文書群(バイチュム)に記された「領域」が物語るもの(2) |
増原善之 (21世紀COE研究員) |
筆者は、平成17年度より科学研究費補助金(萌芽研究)の交付を受け、「ラオス・ラーンサーン王国行政文書群(バイチュム)に記された『領域』が物語るもの」というテーマで研究に
取り組んでいる。平成16年度若手研究者活動報告において述べた通り、本研究は、ラーンサーン王国後期の地方統治制度の実態を明らかにするとともに、同王国行政文書群(以下「バイチュム」)に記された地
方の小首長国の「領域」を考察することにより、西洋の近代地理学が導入される前から、仏教的宇宙論に基づく宗教的(精神的)空間観念とは異なる、領民支配と資源確保をその要諦とする地方統治上の必要か
ら生まれた世俗的(物理的)空間観念が存在していたことを明らかにすることを目的としている。以下、本年度中に行った研究活動の概要について報告したい(本研究に至った経緯等については平成16年度若手研究者活動報告を参照)。
1.バイチュムの解読・分析
(1)既刊のバイチュム翻字本(現代タイ文字版)2冊 i) を比較検討しつつ、ビエンチャン王国およびルアンパバーン王国 ii) から地方の首長国に送付された「命令書」を始めとするバイチュム29
通について現代ラオス文字への翻字を試みた。
(2)既刊翻字本の問題点(2冊の翻字本間の不一致、翻字者の読み違いと思われる箇所等)を解決するとともに、上記翻字本に収録されていないバイチュムの筆写を行うため、タイ国立図書
館において原本およびマイクロフィルムの調査を行った。少なくとも2巻保存されているはずのマイクロフィルムのうち、1巻しか発見することができず、発見できたフィルムも保存状況が極
めて悪く、前項(1)の翻字済みバイチュム29通のうち、マイクロフィルムから複製を印刷出来たものは、わずか4通であった。ただ、今回の調査で、1886年にルアンパバーン王国軍がムアン・
ソーイ村(現ホアパン県ビエンサイ郡)で行ったとみられる世帯別人数調査の記録文書(原本)を閲覧、筆写することが出来た。これは、1880年代に南中国からラオス北部に侵入してきた中国
匪賊ホー族の攻撃によってムアン・ソーイ村とプン村が破壊され、村人たちも避難生活を余儀なくされていたが、その後しばらくして村人たちがムアン・ソーイ村とその周辺に再び集住するよ
うになったのを受け、同村を始めとする5村94世帯について世帯主の名前、各世帯の男女別人数を調査したものである。おそらく、新しい村の成立にともない課税対象者(数)を把握する必要
が生じたからであろう。さらにこの時代に世帯別人数調査が行われたという事実は、同様の調査が他の地域でも行われた可能性を示すものと言える。今後、このような記録文書が多数発見され
れば、王国政府による人民統治の実態がより具体的に解明されていくであろう。
2.ラオス・ホアパン県における現地調査
バイチュムに記された地方の小首長国の領域が、当時の地方統治においてどのような意味を持っていたのかを検討するため、関連するバイチュムが比較的多く現存しているラオス東北端ホアパン
県において現地調査を行った。今回はマー川沿いのエート郡、シェンコー郡およびソップバオ郡において、バイチュムの中で首長国の「境界線」として列挙されている古地名(山、崖、洞窟、川
、浅瀬、沼など)を村人たちが知っているかどうか、バイチュムのような古文書がどこかで保存されていないか、村の歴史がどのように伝承されているかなどにつき聞き取り調査を行った。新史
料の発見には至らなかったものの、かつての首長国ムアン・エートの領域は、北はベトナム領内、南はホアパン県南端近くにまで及んでおり、これは現在のエート郡の行政区域をはるかに越え、
ホアパン県と同等か、もしくはこれを上回るほど広大だったことが明らかになった。これはこれまで筆者が想定していた「王国政府と多数の小首長国によって構成されるラーンサーン王国」とい
う図式に再考を促す結果となった。
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マー川の船着場
川を渡り、さらに14kmほど行くとラオス・ベトナム国境である (エート郡ムアン・エート村) |
寺院での古文書調査
インドシナ戦争当時、多くの古文書が焼失したという
(ソップバオ郡ムアン・ホム村) |
さらに、かつてルアンパバーン王国は、自国とベトナムとの間の境界とするため、ダーン・ホム、ダーン・ハンのごとく、その名前が「ダーン(境界、領土、関所の意)」で始まる村を建設したうえ、
それぞれの村に寺院を建立したという話をソップバオ郡で聞くことができた。この「ベトナム」がハノイを中心とする所謂「ベトナム人」を意味するのか、それとも今なおベトナム西北部やラオス東
北部に居住している「黒タイ族」を意味するのかは別途検討しなければならない問題だとしても、地図に示した2つの村々があたかもマー川に並行して南北に伸びる「境界線」のごとき役割を果たし
ていた可能性は否定できず、世俗的(物理的)空間観念が前近代ラオスにおいても存在していたことを示唆する事例の一つであると考えられる。
来年度は同県サムヌア郡、ビエンサイ郡、サムタイ郡などで現地調査を行い、バイチュムに記された「境界線」の再現を試みるとともに、前近代ラオスにおいて世俗的(物理的)空間観念がすでに
存在していたとすれば、それを生み出した要因は何かという点についても考察を進めていきたい。
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ラオス・ホアパン県東北部 |
注 i) Phimphan Phaibunwangcaroen, 2000, Bai Cum: Saranitaet Bon Singtho (Bai Cum: Official Letters
on Textiles), in Thai, National Library, Fine Arts Department, Bangkok. およびWaraporn Tokeeree, 1989 , Kansuksa “Bai Cum”: Ekasan Thang Rachakan Khong Anacak Lanchang (A Study
of “Bai Cum”: The Official Documents of Lan Chang), in Thai, MA thesis, Silapakorn University.
ii) 18世紀初め、ラーンサーン王国はルアンパバーン王国、ビエンチャン王国、チャンパーサック王国に分裂した。同時代以降、バイチュムはルアンパバーン王国およびビエンチャン王国とそれぞれの支配領域との間でやり取りされた。
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