「マサイの戦士」といえば、日本でも乳飲料の商標になるほど有名だが、私は「サンブル」というマサイの親戚にあたる牧畜民のあいだで、1998年から人類学的な調査をおこなっている。サンブルの戦士もマサイと同じく、派手なビーズで身を飾る「野性的」で格好いい青年たちである。「戦士」とは、割礼をうけてから結婚するまでの未婚の男性をさす。
サンブルへは、ケニアの首都ナイロビから乗り合いバスを乗り継いで約八時間で到着する。日本から久しぶりに訪れるときには、バスを降りた道ぞいの小さな店に立ち寄っておみやげに砂糖と紅茶の葉を買うことにしている。買い物をしていると、「きみが来ると聞いた」と言いながら、知った顔の戦士たちがやってくる。
|
サンブルの戦士 |
不思議なことに、私が来るという情報は乗り合いバスより速く走って、たいていは私より先にこの地に着いている。途中の町でバスを乗り換えるときに誰かに見られているのか、それともバスの車窓の「白い」顔を彼らの恐るべき視力がとらえているのか・・・。人びとの情報ネットワークにはいつも驚かされる。
バスを降りたところから二時間ほど歩いて居候先の友人の家に着くと、友人の母はしぼりたてのミルクと私のおみやげの砂糖と紅茶で格別においしいミルクティーをいれてくれる。お茶を飲みながら久しぶりに会う家族と挨拶をかわしていると、知り合いの戦士たちがぞくぞくとやってくる。どうやら私が来たことは、バスが通っている道ぞいの町のみならず、すでに村の奥にまで伝わっているようだ。彼らは再来した私に挨拶するという目的が半分と、残りの半分以上は、「私が来た」イコール「甘いお茶が飲める」という理由で集まってくるのである。
「どうして私が来たとわかったの?」と聞いても、当然のことを聞くな、といった様子で誰もとりあってはくれない。
お茶を飲み終わった戦士たちは、若者たちが毎晩のように集まって楽しむダンスに行くというので、私も一緒にでかけることにする。家の外に出ると、あたりにはすっかり静かでひんやりとした夜の帳がおりている。月明かりに白く浮かびあがった地面に、戦士のひとりが槍を突き刺す。
「ほら、きみの足跡だ」
そこにある靴跡のとなりを踏んで足をあげると、なるほど、まったく同じ模様が刻まれた。自分の靴の裏の模様など意識したことがなかったのだが、私は町から家まで「私、来ました、私、来ました」と地面に書きしるしながら、歩いていたというわけだ。
あるとき、山をふたつ越えた先の集落の娘と結婚するという戦士の結婚式に行くことになった。新郎に同行する戦士たちは全部で十人ほどだが、婚資として支払うウシとヒツジを追いながら行くグループと、私を連れて行くグループと二手に分かれて出発し、途中で合流することになった。「私グループ」は「婚資グループ」より先に、日の出前に出て、のんびりと行くことになった。私はウシやヒツジよりのろま、という彼らの計算である。 |
旅の途中で丘の上に立つ戦士 |
旅の途中、丘の上で休憩することになった。足も疲れたがおなかもすいた。おカネで空腹を解決できる「町」では、私が彼らのおなかを満たすことができるが、ひとたび森に入ってしまえば手も足も出ないから、いつも彼らの流儀に従うことにしている。見晴らしのいい丘の上に立つと、遠くにワシが円を描いて飛んでいるのが見える。それを見てニヤリとした戦士たちのうち、ふたりが丘を駆けおりて行き、残った私たちは木陰で昼寝をする。
ウトウトしていると、寝ていたはずのひとりが「そろそろ食事だ」と言って、むっくりと起き上がる。さきほど丘をおりていったふたりから、なにやら合図の音がしたと言う。しばらくして戻ってきたふたりは、大きなヤギの足の肉を一本もっている。聞いてみると、ワシが円を描いていた、その下で、この地域に住む戦士たちがヤギを殺して食べようとしていたということだった。気がつけば昼寝組は、いつのまにか薪を集めてきており、火をおこして肉を焼く用意万端がととのっている。すばらしい連携プレイ!
焼肉を満喫したあと、また森を歩き出す。鳥の声に振り返り、ひとりの戦士がその鳥に向かって石を投げる。石は鳥をわずかにかすり、鳥はバサバサッと白い羽を落として飛び去った。戦士たちは駆けていってその羽を拾って頭に飾っている。食欲を満たしたあとは、色気。今夜のダンスの準備というわけだ。
ふたつ目の山をおりる山腹にさしかかったところで、彼らは、後から来るはずの「婚資グループ」が別のルートを通って、どうやらわれわれよりも先に行ったと言いながら、地面を見ている。そして「ウシの足跡の中にヒツジの足跡があるだろう」と教えてくれる。ふつうウシとヒツジをひとつの群れにして放牧することはないので、これはまちがいなく「婚資グループ」の足跡だというわけだ。
「静かにしろ」と言われて耳を澄ますと、彼方から歌声が聞こえた。花嫁を迎えに行く男たちだけがうたう歌である。こちらのグループも同じ歌をうたい始める。歌声どうしは呼応して、ふたつのグループはいつのまにか合流し、ひとつになった歌声は花嫁の待つ集落へと向かうのだった。
足跡、匂い、空の色、鳥や蝶の飛ぶ方向、彼方の歌声や木を切る音・・・。彼らは五感を研ぎ澄まして、今、自分が生きている世界を全身で把握し、そこから必要な情報をとり出して活用する。これこそが戦士の情報技術。彼らの生命力だ。携帯電話の小さなディスプレイを凝視したまま立ち止まることなく道を歩く私たちは、戦士の五感を退化させながら、どれほどに大切な情報を手にしているのだろうか。現代の情報技術のおかげで地球規模の情報を手中におさめたが、みずからが生活する空間とのかかわりは薄れゆくばかりである。人類は技術進歩と同じスピードで退化しているのではないかと考えこまずにはいられない。
しかし、グローバリゼーションという名の波は、ゆっくりと考える時間を与えてはくれないようだ。昨年は小さなサンブルの町でもついに携帯電話をみかけた。片手に槍、片手に携帯電話。今、地球の隅々にはそんなちぐはぐな光景があり、猛スピードで何かが消えようとしている。
(『まほら』第41号掲載: 2004年10月旅の文化研究所発行)
|