Zambia Field Station
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に「まち」をつくる ―マラウイ湖漁撈社会変容における帰還労働移動者受容―
City Lights Emblaze the Lake:
The Reception of Returned Labour Migrants in Fishery Transformation of Lake Malawi
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
中山 節子
マラウイ湖(ニヤサ湖・ニアッサ湖)は、いわゆる南部アフリカと東アフリカの境界に位置する湖である。もっともこのような位置づけは、ヨーロッパ勢力の介入による地域の政治経済の再編のなかで生じたものである。19世紀後半、英国政府はニヤサランド保護領を設立し、マラウイ湖上に国境を設けて湖上交易のルートを分断した。それは植民地化の大義名分であった奴隷貿易の廃止を達成するばかりでなく、自領側の住民を南部アフリカ各地のヨーロッパ人入植地経営のために動員するという、経済的目的をもった政策であった。こうして東西から南北へと人とモノの流れが再編され、マラウイ湖西岸は南部アフリカの東北端としての位置を得たのである。

つまりマラウイ湖の西岸地域は、南アフリカ経済圏を支える労働移動者の供給地というかたちで、その周縁に組み込まれていったのである。これは南部アフリカ・南ア経済圏というものが、ある湖の境界性の操作を通じて、その周縁より実体化してゆくプロセスともいえる。それは当地域の住民にとって、より大きな政治経済システムへの一方的な従属の経験であったのだろうか。このような見方に反論する先行研究者たちは、帰還労働移動者たちの起業家精神に注目し、マラウイ湖の漁撈の商業化の動因を、彼らの資本力による漁具の工業製品化と、それに伴う漁撈組織の流動化にもとめた(Chirwa 1992, Kapeleta 1980)。だがそれらは帰還労働移動者たちの社会変革力を強調するあまり、湖岸社会の漁撈をめぐる在来の慣習を硬直したものとみなし、社会変容を単線的で不可逆のプロセスとして描くという危険性をはらんでいた。すなわち、「マラウイ湖岸の『伝統的な』漁撈社会は、労働移動経験者という強力なエージェントによって一気にグローバル化の波に呑まれ、消滅してしまった」という語りくちがこれらの論考を通じて定着していったのである。このような近代化による、漁撈をめぐる共同性の喪失の語りこそが、コモンズの悲劇論と安易に結びつくことにより、その後の政府や諸外国による漁撈者たちへの介入を促進してきたとはいえまいか。

本発表では、マラウイ湖における漁撈社会変容を、帰還労働移動者をはじめとする移入者と、それを受け入れる受容者側の交渉のプロセスとして提示する。それは移入者自身と、彼らがもたらす漁撈に関する個々の具体的な技術や組織の受容をめぐって、社会の境界が常に再定義される、エンカウンターの連鎖ともいえるプロセスである。発表者は、これまで見過ごされがちであった受容者側の変革力に注目する。調査地の漁撈者たちは、選択的に移入者や変化を受けいれつつ、自らの社会を変容させてきた。それは移入者(だった者)たちとともに湖に「まち」をつくりだすというような、漁撈をめぐる新たな共同性を生み出してゆく創造的な営みだったのである。